2015年2月12日木曜日

「エージェント・マロリー」を観た

お正月にBSジャパンで放送してたのをHDDに録画してあった、スティーヴン・ソダーバーグ監督の「エージェント・マロリー」を観た。

2012年の公開作品。
主演に、プロの女性格闘家を起用した、ということで、少し話題になってて、個人的にも気になってた作品。

S・ソダーバーグは、この作品の何本か前に、「ガールフレンド・エクスペリエンス」という作品で、同じように“本職”のポルノ女優を主演に起用してますけど、その作品は、なんていうか、ほぼ“手癖”だけで撮られた、という感じの“小品”だったんですが、結構面白くて、さすがだな、と。

不思議なのは、この作品も「ガールフレンド・エクスペリエンス」も、女優さんがちゃんとそこに役として存在している、というトコ。

演技に関して、何か特別のレッスン・プログラムみたいなのがあるのか、それとも、専らソダーバーグの演出によって導かれているのか。

ポルノ女優だろうが格闘家だろうが、映画の“主演女優”として、きちんと成立させてしまう、という。
何か“マジック”みたいなのがあるんでしょうか?

実際、物凄い格闘/アクションシーンが有るかっていうと、実はそんなことはなかったりして、所謂アクション大作という、お金を掛ければ幾らでも“迫力”のあるシーンは撮れたりするワケで、そういうモノと比べると、そうでもなかったりするワケです。

でもやっぱり、リアリティみたいなのは、確かにあるんですよ。
単純に、動きが滑らかだったりして、またそういうのをしっかり撮ってるワケですね。
彼女ありきの撮り方をちゃんとしている。

それと、例えば街中を逃げて走るシークエンスがあるんですけど、走り方が良いワケです。
自然に走れる。
これは、意外と難しくって、不自然じゃない感じで走る、という演技が出来る人って、男女含めても、そんなに居ないハズですから。

ソダーバーグもそこは分かってて、彼女の走るシークエンスは、物凄い長いです。カット自体も長いし、シークエンスもたっぷり取ってる。

もちろん、格闘シーンも。


「ガールフレンド・エクスペリエンス」もそうだったんですが、妙な生々しさ、というか。
アクションシーンに「妙な生々しさ」なんていう言葉がフィットしてるかどうか、というアレはありますが、やっぱりそういうのが確かにあるんですよねぇ。


脚本の作りも面白くて、なんか冒頭いきなりカーチェイスみたいなのが始まって、巻き込まれてしまったその車の持ち主に、「何があったのか」を主人公が語る、という形で進行していくんですが、これがかなりテンポが良くって、引き込まれる感じで。


この辺は、シナリオと、あと編集の巧さだと思いますね。
斬れ味がいい。


話自体は簡単で、一つのトピックを、当事者である主人公の視点と、主人公を陥れる側の二つの視点とで、そのギャップのサスペンスで引っ張る、というだけのことなんですけど、テンポがいいのと、彼女の存在感と、あと、脇に豪華な“演技派”をズラッと並べていて、なんかそれだけで楽しくなってくる、というか。

登場人物が少ないんで、「この中の誰かが黒幕」ということになっても、大体想像がついちゃうんですけど、でも、それでもいいワケですね。
単に、ストーリーに骨組みが必要だから、そういう風にしてある、というだけのことで、作品自体のポイント/ウェイトは別のところにあって、それだけで充分面白い、ということなワケで。

褒め過ぎかな?

でも、好きですね。

この力みの無さが、というか。



作品の、ストーリーや世界観ではなく、製作(≒予算)のスケールに合わせて、しっかりと作品を作り上げる、しかも、それをコンスタントに続ける、というところが、この監督の本当の天才性だと思うんですね。
ケン・ローチなんかにも、個人的にはそういうのを感じるんですけど。

「敢えて低予算で作る」という姿勢も含めて。
(まぁ、“低予算”って言っても、あくまで比較の問題で、ホントの意味での“低予算”じゃないですけどね。あくまで、他の、大作との比較の問題。)


主演に格闘家を据える、というのも、“その予算”で作るための、一つのテクニックでもあるワケで。
ビッグ・バジェットのメジャー製作の大作では、そういうことはあり得ないワケです。許されないし、ソダーバーグも、別に無理してそういうことはしない。
大作を撮るときは、それに相応しい体制で作るワケです。

で、大事なのは、どちらのスタイルでも「良い作品」を作ることが出来る、と。


当然、製作の規模によって「良い作品」というのは、定義が変わってくるワケですけど、それに相応しいモノを作ることが出来る、というのは、まぁ、天才なんだろうなぁ、というか。

安っぽい結論ですけど。



うん。



でも、アレですな。
主人公を演じたジーナ・カラーノは、凄くいいと思います。

ホントに、彼女ありきの作品。

映画とは、「movie」であって、“動き”なワケですよね。
“身体性”こそが映画の本質(の、一つ)なんだ、と言い切ることも出来るワケで。

彼女の“身体性”こそが、この作品の肝であって、まぁ、堪能できる、と。
美貌も含めて、ね。




お勧めです。












2015年1月27日火曜日

「トゥルース 闇の告発」を観た

CSの映画チャンネル・ムービープラスで、レイチェル・ワイズ主演の「トゥルース 闇の告発」を観た。


ベネディクト・カンバーバッチ特集企画の中の作品だったんですが、カンバーバッチは実は端役ででしか出てきません。
同じく、モニカ・ベルッチも登場しますが、こちらも脇役。


というかですねぇ。
このスター二人が、脇役なワケですけど、なんていうか、例えばいわゆる“二時間サスペンス”だと「萩原流行(もしくは本田博太郎)は必ず犯人だ」みたいな“法則”があるワケですよ。
名前のある俳優が演じているキャラクターなんだから、重要な役どころに違いない、みたいな。
この作品でも、カンバーバッチが「あとで出てきて窮地を救うんだろな」みたいに思っちゃったりするワケですよねぇ。
毒されている、と言えばそうなんですけど。
「これは何かの伏線に違いない」と勝手に思い込んでしまう、という。

ところがまぁ、そういうことにはなりません、と。


そもそもこの作品は、実話を基にした、シリアスな“告発もの”として製作されたもので、二人のスターが端役で登場しているのは、恐らく、製作意図に賛同して“顔を貸した”という、そういうことなんだと思います。
あんまり好きな言葉ではありませんが、「メッセージ性の強い」という、そういう作品。


ユーゴ内戦、民間軍事会社、国連平和維持活動、ヒューマン・トラフィック(人身売買)、というのが、キーワード。


冒頭、確かウクライナだと思うんですけど(違ったかな? 東欧の別の国かも)、少女二人が、キャンプファイヤーみたいなパーティで遊んでるんです。
で、女の子同士で、片方は「働きに行こう」と誘ってて、もう片方が「ママが心配するから」と言って、帰ろうとする。
「ホテルで働く口がある」という話なワケですね。それが、騙されて(しかも、親族に)人身売買で“売られていく”ということなワケですけど、その女の子は、一旦家に帰るんです。深夜に。
で、パーティーから帰ってくるんですけど、「遅い時間までなにやってんのよ」と、母親に怒られるんですね。女の子が。
そこで、ムッとしてしまう女の子。
で、と。
家出してしまうワケですよ。
誘ってきていた友だちの話に、乗ってしまうワケです。


この、イントロダクションの部分の、「いったん家に帰る」というフックが、まず良かったですねぇ。
ただの家出じゃないし、分別なしのただの不良娘じゃない、という“前置き”があって、これが、人身売買・性的虐待・暴力犯罪の被害者となってしまうその女の子に対しての、悲劇性とか感情移入とかに、効いてるんですよ。
巧いです。


で。
主人公は、そのイントロダクションの後から、登場します。

主人公は、アメリカの女性警察官で、昇進試験に落ちたり、離婚して娘と引き離されたりとかで、なんか生活が上手くいってないのを打開しようと、という感じの動機で、ボスニアに赴く。

アメリカの白人女性、というのは、なんていうか、世界的な視点で見ると、物凄い特殊なんですよ。
レディーファーストと男女平等、という二つの“教条”に、「建前上は護られている」という存在で、もちろん、実際の感覚としては男女差別というのは間違いなくあるんでしょうけど、でも、特に公務員として働いている場合は、少なくとも建前上は、護られている。

これは、特に“後進国”と言われている場所では、まったく違うワケです。
西ヨーロッパ以外全て、と言って良いくらいに。
男女差別と、人種差別。
白人であり女性であり、職業を持っている、という、アメリカ国内では通用する“バリア”が、ボスニアでは、まったく通用しない。

剥き出しの女性蔑視、人種の違いによる差別意識が、ストレートな悪意や迫害として表出してくる。



で。

ストーリーは、ある種のサスペンスとして、「犯人を突き止める」という形でドライブしていくんですが、ここで大事な問題があって、それは、原題が「the whistleblower」となっているトコ。
ホイッスルブロウアーというのは、直訳すると「笛を吹く人」なんですけど、「内部告発者」という意味なワケですよね。
つまり、タイトルで「これは内部告発を扱う作品ですよ」と宣言してしまっている。
つまり、「主人公は内部告発をする」ことが明らかなワケで、彼女が所属している組織が、その「告発される組織」なワケです。
つまり、ストーリー上では、話の起こりの段階で、既に「サスペンスが消化されている」ことになっちゃってる。

もちろん、作り手だって、そんなことは充分承知の上でやっているんでしょうけど、ちょっと「あれ?」な感じはあるんですよ。やっぱり。

まぁ、そういう、サスペンスの作品ではなく、社会派ドラマとして観てくれ、ということなんでしょうけどね。

人身売買・性的搾取及び暴力。それらの、組織犯罪。



ストーリー本体に話を戻すと、やっぱりポイントなのは、民間軍事会社、ということですよね。
国連から“業務”を請け負って、現地で活動している。

主人公は、警察官として、現地の警察組織を支援する、という立場で、実際にボスニアで動くことになる、というストーリーなんですけど。
つまり、現地の警察、という組織が出てきます。

それからもちろん、国連。
現地の移民局、という組織も出てきます。(モニカ・ベルッチは、ここの役人、という設定。)
それとは別の、内務省の人間も出てきます。
それから、アメリカ国務省も。


官僚主義という、誰も何も救わない“悪癖”。


これが完全なフィクションのストーリーなら、それこそカンバーバッチが颯爽と出て来て、少女も主人公も、組織犯罪の悪夢と官僚主義の谷の底から、救い出すんでしょうけど、この作品では、そうはなりません。


現実がそうである以上、それはしょうがない。



苦い感覚を引き摺ったまま、作品は終わりますけど。
それも、作り手の狙いのままでしょう。




苦いですけどね。



特に、この作品の“苦さ”の中心にあるのは、被害者である少女二人が放つ、徹底した不信感だと思うんですね。
助けようとする主人公に対して、最後までまったく心を開かない少女。
そして、結局“その通り”になってしまう、痛々しい現実。
裏切られ、利用され、蝕まれ、奪われ、痛めつけられ、虐げられ、逃げようとして叶わず、誰一人として、助けてくれず、助けられたと思ったら裏切られ、という。

彼女たちに対する、無力な主人公たち。


繰り返しになりますが、映画のイントロダクションが、主人公ではなく、彼女たちの描写から始まる、というのが、しっかり効いているワケで。



うん。
冷静に捉えようとすれば、これはホントにシナリオの強さだと思いますが、シナリオの良さを褒めることが、この作品の“本意”でないことも、明らかなワケで。


“現実”の告発こそが、この作品の製作意図なワケですからね。



うん。





気になる弱点はあったりしますが、社会派の作品としても、シナリオの良さを感じる作品としても、良かったと思います。













2015年1月4日日曜日

「動乱」を観た

高倉健追悼企画として上映されていた、「動乱」を観た。


高倉健と吉永小百合の二大スター主演で、「二・二六事件」を題材にした作品。
完全に史実をなぞる、ということではなく(そういう作品は、他に幾つもありますが)、高倉健演じる“青年将校”も、フィクショナルに作られたキャラクター、ということみたいです。
もちろん、モデル、というか、“史実”をベースに、しっかりとリアリティある存在として描かれていますけど。

公開は、1980年。
「二・二六事件」の“首謀者”たちを全面的に肯定する、ということでは、80年という、公開当時の“現在”ならではの意味があるのかもしれませんけど、正直、そこまでは分かりません。
逆に、60年代70年代にはできなかったことなのかなぁ、とも思いますけど。


その、「売春婦と傭兵」というのは、所謂「世界最古の職業」とされているワケですよ。
自給自足ではない存在、自分の身体、つまり労働力を、純粋な意味での“金銭”と交換することで生活を成り立たせている存在。

売春婦とは、まさに、身売りされていく吉永小百合であり、高倉健演じる将校の部下である兵卒たちは、貧しい農村からやってきた「国家に雇われた兵士」であって、という。

その、高倉健と吉永小百合が、必然と偶然が重なって、出会い、人生が交錯し、ともに暮らし、そして、と。
よく出来たストーリーですよねぇ。

「二・二六事件」とは、クーデター未遂事件なワケで、そういう、「国家を巡る大きな話」を、主演二人を巡る話、あるいは高倉健一人の胸の内の相剋に、巧く落とし込みながらストーリーをドライブさせていく、という構造になっていて、この構造は、まさに“映画”って感じで。



東北の連隊駐屯地、左遷された先の朝鮮北端の地、東京、と、物語の舞台のスケールも、二大スターの看板に相応しい展開で、まぁ、特に雪原での、“匪賊”たちとの闘いを描く場面、というのは、いいですよねぇ。
敵の姿が見えない、というのも含めて(実際の、本当の敵は“味方”に居るんだ、ということなんですけど)、説得力あります。


吉永小百合の、人買いに買われて、売られて“流されて”売春婦として生きる“生き方”が「楽なの」みたいなセリフとか、素晴らしいですよね。
“身請け”しておきながら、自分を妻として“抱かない”高倉健に対して、「このカネで私を買ってよ」とか。
吉永小百合って、特にこの頃の顔って、少し目つきが鋭いんですよ。
柔和ではないんです。
その目線が、意志の強さを表現してるんだし、運命に抗ったり、生活に苦しみ格闘していたり、人生を引き拓こうとしていくようなキャラクターを、表現してきたワケですけど。
この作品においても、そういう、いわゆる「吉永小百合らしさ」みたいなのが、しっかり打ち出されていて。

つまり、「高倉健らしさ」だけではないワケですよね。
どちらかがどちらかを殺しているワケではない、と。
二人が、それぞれ俳優・女優として持っている「固有の物語」が、作品の物語としっかり融合している。


主演の二人の演技も、ロケーションその他も含めた画作りも、作品すべての要素がしっかりストーリーを支えている、つまり、ストーリーに奉仕している、という、良い作品というのは、どんな作品でのそういう風に出来ているワケで、この作品もそうなんだ、ということなんですけど。


で。

これは完全に個人的な感覚なんですけど、この作品を2015年の現在において観ると、なんていうか、妙な“現代性”を感じてしまう、という。
不思議な現象なんですけど。
追悼上映で観た作品に、妙な現代性、現代に対する批評性、みたいなのを感じてしまう、という。



作中で“統制派”が語る「国家が強くなるためには、まず強い軍隊が必要なんだ」みたいな言葉は、まさに「トリクルダウン」なワケで。

もちろん、具体的な諸々の政策自体は、ネオリベとしての経済政策(所謂アベノミクス)とは、まったく違うんでしょうけど、思想の根本の部分は、というか。


“戦後”は終わったけれども「今は新しい戦前なんだ」という言葉を思い出したりして。

作品が製作された70年代末期、公開された1980年当時とは、また違った意味合いが生まれてきているんじゃないかなぁ、というか。


そういう意味でも、面白かったですねぇ。
映画体験として面白かった、というか。
(もちろん、健さんを追悼する、という意味も十分分かった上で、ということですけど。)



現代に対する批評性、ということでいうと、これはちょっと誤解を生む表現かもしれませんが、高倉健演じる、人望を集める青年将校が、色んなモノを背負っていくうちに、特に「“身請け”した妻」との関係性において、“性的不能”的な状態になってしまうワケです。

そういうシチュエーション、ということですけど。
矛盾や相剋を一人で抱え込もうとするばかりに。


その、「一人で抱え込んで苦悩する」ことこそが、高倉健がずっと表現してきたことなワケですけど、なんていうか、当時はともかく、現在においては、そこに“クール”な感じはしないワケですよねぇ。

それは、「高倉健が演じるキャラクター」以外にはできない、という、なんていうか、“物理的”な制限がある、ということの他に、“性的不能”的な状態に追い込まれてしまう、ということの、(敢えて言いますけど)カッコ悪さ、みたいなのが、どうしても、ある。

作中では、主人公は最後に、(唯一度)それを克服して、二人は肉体的に結ばれるんですけど。
(それは、作品中においては、とても感動的なシーンなんだけど。)

ちなみに、ラスト前、自分で縫った着物を羽織らせる、というシークエンスは、「肉体的な繋がり」のメタファーとして極めて優れた(しかし一般的でもある)表現なんですが、ここでは、それはさておき。


いや、「だからなんだ?」ってトピックではあるんですけどね。

まぁ、一つの特徴、というか、時代性、ということなんでしょうけど。
ちょっと、気になったもんで。




作品のラストショット。
額に巻かれた鉢巻に、射殺の“標的”として、黒い丸が描かれているんですが、これが、撃たれた後に、血で、赤い丸、つまり「日の丸」に変わるんですよ。
「日の丸」の鉢巻をして、死んでいく、という。

まるで、十字架に縛り付けられたキリスト教徒の殉教者か、あるいはイエス・キリスト本人かのように。


「女囚サソリ」のラストショットは、風にはためく「黒い旗」で、それは“アナキズム”の象徴としての“黒”だったワケですけど。

この作品の「日の丸の鉢巻」も、印象的ということでいうと、かなりの強度でした。



うん。



追悼、ということだけでなく、他の意味合いも色々感じてしまう、という、そういう作品でした。
2015年正月、というタイミングで観ることができて、良かったです。

















2014年12月26日金曜日

「インターステラー」を観た

クリストファー・ノーラン監督の新作「インターステラー」を、クリスマスにイオンモール内のシネコン、Tジョイ京都で観た。


C・ノーランは、まぁ、言うまでもないことですけど、今一番旬なハリウッド・フィルムメーカーなワケですよねぇ。
「ダークナイト」で、シネフィルからマスマーケットまで、幅広く、各方面それぞれのツボをガッチリ掴んだワケで。


「インセプション」は、ディカプリオや渡辺謙やジョセフ・ゴードン=レヴィットといった、マネーメイク・スターをズラッと並べたオールスターキャストでしたが、今作は、もちろん“オールスター”ではあるんですけど、受けた印象としては、ちょっと地味め。

これは、実は、演出のアレなんですよね。
誰もが、「如何に実際にいるかのように」撮られていて、アン・ハサウェイも化粧っ気全然なしって感じで出てきますし。
主役マシュー・マコノヒーの“農夫”っぷりとか、なかなかですよねぇ。

今作においては、C・ノーランは、そういうリアリティをチョイスした、と。
そういうことですね。

作品において、どのレベルにリアリティを設定するのか、というのは、特にSFでは、とても大事な要素になってくるワケで。

「映画」というのは、そもそも“虚構”として撮影されるワケで、その、実際に撮影する段階では、所謂“現実”と同じ「リアリティのレベル」では、作らないワケです。
リアリティ度は下げる。フィクションの度合い、ということでいうと、上げる。
「作られた現実」というのは、そういうもので、そうしておいて初めて、「大画面での鑑賞に耐え得る」モノになる、と。


その、「リアリティのレベル」の調整に、C・ノーランは、自覚的なワケです。
「ダークナイト」では、唯一つ「バットマンがいる」という所“だけ”を、“虚構”としたワケですね。
これまでのアメコミの実写化作品よりも、「フィクションのレベル」を、グッと下げた。

「インセプション」では、一つの作品の中に、“現実”と“まるごと虚構の世界”とを同居させて、そこを自由に行き交う、みたいな作りになってて。


今作では、「リアリティのレベル」は、より引き下げられていて、そこから一気に飛躍する、という構成になっていますね。

農場から、宇宙船の中、という。
この構成を成立させる為には、オープニングのマシュー・マコノヒーの“農夫”としての存在感、というのは、とても大事な要素、ということなのでしょう。



で。


作品の主題からは逸れるかもしれませんが、個人的にちょっと感じた印象を書いておくと、「テクノロジー」と「キリスト教」、みたいなテーマを感じたんですね。

キリスト教、というか、まぁ、大きく括って「宗教」とか、あるいは「宗教的」というか。

キーワードとして、例えば「疫病」なんていう言葉も(訳語ではあるんですが)、ちょっと聖書の記述を連想させる感じがあったりして。

聖書に限らず、なんていうか、「疫病」って、ちょっと「古い言葉」ですよね。仰々しい、というか。
不作の正体は結局正確に明かされず、まぁ、温暖化とか気候の変化とか、そういう“解釈”をさせていますけど。

例えば、「十二人の宇宙飛行士が先行している」エピソードの“12”という数字は、使徒を思わせるし、「そのうちの三人がメッセージを送ってきている」なんていうのも、「東方の三賢者」を思わせるし、水(液体)に覆われた惑星の地表の描写は、もちろん「ノアの方舟」の「大洪水」を思わせるトピックだし。

そもそも、「何者か」からのメッセージを受けて、それを解読し、という、最初の主人公と娘の謎解きシークエンスも、やっぱり宗教的な匂いを感じさせるし。


しかし、ということですね。
「何者か」の正体は、未来の自分、というか、五次元空間からメッセージを送っていた自分、というオチだし、最後には、人類は宇宙ステーションを“自作”することが出来ているし、再び主人公を(“密航者”としてではあるものの)送り出すことが出来るし、つまり、人類は、自分たちのテクノロジーの力によって、(なんとか)天変地異の脅威から生き延びることが出来るのだ、と。

そういう主題を感じてしまったんですよねぇ。

孤独に耐えられなくて、人類全体を騙すマット・デイモンは、人間が本質的に持つ弱さを体現している存在だけれども、同時に、最後まで希望を失わない精神や、自己犠牲を厭わない、という、そういう人間たちも、描かれていて。
特に、主人公の娘は、父親に捨てられたという感覚に苛まれながら、しかしその孤独感には、打ち克っているワケで。

まぁ、人間賛歌、というか、ね。


父と娘の愛、というだけでなく。



あと、ちょっと思ったのが、「父と息子」の話じゃないんだな、と。
「父と息子」というのは、アメリカ映画の普遍的なテーマなワケで。
それこそ「バットマン」にも、「父と息子」というテーマは内在しているし。
そこは新鮮でした。


子役の、健気な感じとか、泣き顔とか、良かったです。




ただし。






なんていうか、SFの、タイムスリップを扱う作品なんかだと、「未来の自分が過去の自分を救う」というオチは、結構使い古されているものでもあって。
ブラックホールも。

そういう意味では、「インセプション」の「夢の中に入り込んで潜在意識を植え付けて、帰ってくる」というギミックは、ホントに面白かったんだけど、今作では、そういう“驚き”は、あんまりなかったんですよねぇ。


大風呂敷の包み方、というか。

まぁ、人間賛歌とする為には、必要なギミックではあるので、良いっちゃ良いんですけど。


そこだけ。



例えば、スタートレックなんかでも、タイムスリップものっていうのは、あるワケですよ。
ただ、スタートレックは、それこそ何十年もかけて世界観を丸ごと構築しておいて、ということなワケで。
やっぱり、太陽系と時空を股にかけて、というスケールの話っていうのは、どうしても手間暇が掛かってしまうもんですからねぇ。
太陽系外探査とタイムスリップと、人類滅亡の危機と、家族愛を、ということになると、なかなか大変になっちゃうワケで。

そういう意味では、上手な脚本だとは思いますけど、やっぱり、ね。
長いし(二時間半以上)。







なんか、単純に、マット・デイモンは嘘をついていた、という展開に普通にビックリしちゃったりとか、そういうアレはあるんですけど。
「重力の謎を解明することはできないことが分かっていた」というのも、ストーリーの展開としては、面白かったし。
「マジか?」という感じで。







ちょっと前に公開されてた、ノーラン組で製作された「トランセンデンス」が、なんかイマイチだったのを思い出して、今作と比べてしまいまして。
「やっぱ、(脚本の)ジョナサン・ノーランがいい仕事してんだな」と。
そんなことも、思いましたね。




というワケで、物凄い期待してたので、その分ちょっとした所が気になってしまって、というアレで若干マイナスですが、面白かったのは面白かったな、と。


良い作品でした。
C・ノーラン。次作にも引き続き、超期待。















2014年12月11日木曜日

「Nas / life is illmatic」を観た

立誠シネマで、稀代のリリシストNasのドキュメンタリー「life is illmatic」を観た。



ナズNasの、半生を描く、ということではなく、デビューアルバム「illmatic」と、そこに至るまでの少年時代を追う、という形のドキュメンタリー。

基本的に、この切り取り方が成功している作品、ですね。
人生全体ではなく、あるいは当時のヒップホップ全体でもなく(ギャングスタラップについては、まったく言及がない)、天才ナズの、一作目に絞った内容で。


ひとつ面白かったのが、「影響を受けた」という色んなアーティストのインタビューが出て来るんですが、殆どが、一言だけ、というところ。
なんて贅沢なんだ、というか。

アリシア・キーズなんか、いつものバッチリメイクでインタビューに応えてるんですが、ほぼ「凄かった」ってだけで終わってます。
作品がとにかく締まった感じになっているのは、インタビューにしろ何にしろ、とにかく内容を絞ってるのが巧くいっているからだと思うんですが、それも「切り取り方」の巧さ、ということですね。

アルバムの楽曲の曲ごとのエピソードなんかも、ピート・ロックの話とか、結構ゾクゾクしちゃうんですが、その曲に頼り過ぎないんですね。
一曲丸ごと、とか、そういう風にはならない。
変に感傷的にもならずに、DJプレミアもQティップも、快くインタビューに応えている、という雰囲気で、“今の”ライブでラップするところと、当時のミュージックビデオの映像を交えながら、サクサク進んでいく感じで。
このテンポ感が、いいんだと思います。



ナズ本人の言葉で印象的だったのが、「自分はそんなに悪くない家庭で育った」と言っているところ。
働き者の母親に愛情をしっかり注がれながら育ったんだ、と。そういう風に語っています。
だから、道を誤らずに済んだ、と。
両親の離婚が“幸福な家庭”に陰を差した、と語るんですが、ナズの実弟が「それでちょっとグレた」と。
この辺りの“構成”も、上手いなぁ、と。

もう一つが、クラック禍が蔓延する前の“パーティー”の感じは、「ハッピーだった」みたいに言うんですね。
でも、と。

クラックが、ぶち壊してしまった、という。



中盤、メイン・ソースのラージ・プロフェッサーにフックアップされる、というシークエンスで、「Live at BBQ」という曲のライブ映像が流されるんですが、そのステージ上にいるラージ・プロフェッサーやそのクルーたちが、なんか楽しそうなんですよ。
パーティーを楽しんでる感じ。
自分たちのステージなんだから、当たり前っちゃ当たり前なんですけど、自分たちが連れてきた“ナスティ・ナス”がラップするぜ、みたいな時に、すげーノリノリな感じでステージに並んでて。

新人の天才リリシストが登場することで、なんか、皆が「アガってる」ワケですよねぇ。
この感じ。


勝手な解釈ですけど、クラック禍に壊されてしまったコミュニティの“連帯感”みたいなのを、そのコミュニティから天才が登場したことで、もう一度取り戻す、みたいな。
いや、実態は、そんなに甘いモノじゃない、というのも間違いないんですが、なんていうか、そういう“空気”みたいなのを感じたりして。

いいなぁ、と。



もう一つ印象的だったのが、「ブリッジ・イズ・オーバー」に至る“バトル”について、当時を振り返って語るナズの表情。
いい顔して語るんですよねぇ。ソファの背もたれに腰掛けて。
あのショットは、良いです。
ロクサーヌ・シャンテにステージに上げてもらったのにスベって、怒られた、とか、そういう話も最高。


子供の頃、兄に無理やりラップを聴かされて、面倒だから「ダメだ」と言ってたけど、内心では「凄い」と思ってた弟、とか、その辺も最高。



うん。


やっぱり、ポイントとしては、繰り返しになりますけど、ナズのキャリア自体(例えば、二枚目以降)ではなく、あくまでデビューアルバムとそのアルバムの背景にフォーカスしていることが、凄い締まった良い作品になっている要因だと思うんですね。

この切り取り方だと、実はナズ本人も「対象について語る語り部の一人」に過ぎなくなっていて、という構図になってて。
なんていうか、健全な距離感、というか。

「illmatic」という作品には、社会や時代背景、ナズが育った環境、家族、ヒップホップという総体的なムーブメント、などなどの要素が、ナズ本人の意思・意図とはまた違う必然性を持って流れ込んでいて、そういうのを巧く語っている、と。

良いと思います。



技法としては、写真を映像として取り込んでいるんですけど、その時に、ある程度加工してるんですね。
単純に写真を動かしたりとか、人物を切り取って浮かび上がらせるようにしたりとか、あとは、フォーカスを弄ってミニチュアみたいに見せる手法があるんですけど、そういうのを使ったりとか。
それぞれの技法自体は、例えばフォトショップなんかで簡単に出来るようなアレかもしれないんですけど(詳しくは分かりませんが)、やり過ぎず、かといってシンプルに写真を繋げるだけでもなく、という感じで。

で、作品の最後に、アルバムのジャケット写真のエピソードが語られるんです。
作品の構成として、そういう風に、巧く「写真の話」に持っていくようになってる。

エピソード自体もグッとくる感じですが、なんていうか、構成もポイント高いですよねぇ。

写真そのものも、凄いクールだし。




うん。


いや、褒めてばっかりですけど。



単純にドキュメンタリーとして(技術的・技法的に)優れている、というだけでなく、作り手の“対象”に対する愛と敬意が伝わってきて、なおかつ、その敬意を観る側が“共有”できる、という。

そういう、良い作品でした。
機会があれば、ぜひどうぞ。





















2014年12月8日月曜日

「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た

一部で話題になっていた作品、「ジョン・ラーベ ~南京のシンドラー」を観た。


観てきました。
京都市内の、社会福祉協議会の持ってる施設の中の会議室での、上映会、という形で。
料金は、1000円。

南京事件を扱っている、ということで、配給会社を通じての一般公開はされない、という、まぁ、その辺の話は、ここではそんなに深くは触れませんが、そういう諸々の“事情”があった、という作品です。
たまたま、なんかの拍子に、「京都でも上映される」ということが分かって、いい機会だから、ということで行ってきました。

なんか、盛況でした。
やっぱりそういう“事情”が、逆に宣伝効果を生んでいるんだと思います。
客層は、やっぱりちょっと、特徴ありましたけどね。

まぁ、こういう、市民の手による上映会、というのは、とてもいいことだと思うんで、今回のこの作品に関する“活動”が、今後の一つのメルクマールになればいいなぁ、と。



で。



ざっくりとストーリーを紹介してしまうと、南京に駐在している、ドイツ・シーメンス社の支社長、という人物が主人公で。名前は、ジョン・ラーベ。
ドイツ人です。なので当然、「ナチス」「ハイル・ヒットラー」とか、そういう単語が出てきます。
日本軍の侵攻が近い、という状況で、南京にいる欧米人を中心に、市内に中立地域(安全地域)を設けて、そこで民間人を保護しよう、ということになるんですね。
赤十字のマークが掲げられて、国際委員会、みたいな名称で。

で、主人公たちが奮闘するんですが、という話。



日本での配給・公開に関して、恐らく一番尻込みされたであろうポイント、というのがあって、それを最初に挙げてしまうと、それは、「皇族の司令官」、というところ。
その描き方、ということですね。
そこに関しての個人的なアレは、なんていうか、不勉強なのもあって、ちょっと是非/正否云々は言えないんですけど、まぁ、ここでしょう。
演じているのは、香川照之。



そのこと自体は、さておき。



ひとつ言いたいのは、シナリオ面で、ちょっと“弱い”んですよねぇ。
弱い。
脚本がイマイチなんです。


だから、こういう言い方はちょっとアレですけど、それも配給されなかった一因だったんじゃないのかなぁ、というか。

なんていうか、「想定されるであろうゴタゴタ」を突破してでも公開したい、という作品ではなかった、という感じだったんじゃないのかなぁ、と。


“弱さ”というのは、幾つかあるんですけど、まず具体的に言ってしまうと、国際委員会を立ち上げよう、というシークエンスで、主人公が周囲(の欧米人)を裏切って帰国してしまうかもしれない、というシチュエーションになるんですね。
設立の準備の為の会議に主人公が現れない、という場面。もう日本軍の侵攻が始まっているのに、という。
ここで、主人公が現れないことに憤ったメンバーたちが、主人公が帰国便に本当に乗っているかどうか、というのを、港に確かに行くんです。
で、港でのシーン、というのが、ワリと派手な感じで描写されるんですけど、これ、全然要らないんですよ。

切羽詰ってるのに、わざわざ皆で雁首揃えて港まで行かないでしょ。
作劇的には、まったく無駄なシークエンス。

主人公が妻だけを帰国させる、という決意を描写する為のシーンなんですけど、ここに物凄くおカネ掛かってるんですね。
巨大な客船、襲撃してくるゼロ戦、モブ、港のセット、などなど。
爆破のショットなんかもあって、喩えCGだとしても、おカネは掛かってますから。

派手なんですけど、意味がない。



もうひとつ。
これはストーリーの構造の問題なんですけど、「少数/個人を救おうとして、多数/全体が危機に陥る」というモチーフが、繰り返し使われるんです。

これは、様々なスケールで同じ構図の悲劇が、という、意図的な設定だと思うんですけど、でも、個人的には逆効果に思えてしまいまして。

サスペンスの作劇法としては、なんていうか、一般的過ぎるアレ、というのもあるんですけど。

なんていうか、「少数派も多数派も、『軍の上層部(≒エリート)』という『別の少数派』に踏み潰されてしまう」というのが、戦争なりファシズムなりを語る映画での描かれるべき本質なワケですよ。


史実を脚色している、ということである以上、しょうがない部分もあるかとは思うんですけど、そういう作品だからこそ、シナリオにおける工夫とかギミックとか、“強さ”が求められるワケで。

詳しく“構図”を説明してもいいんですけど、ポイントが逸れたりするのもアレなんで、このくらいで。


もうひとつ。

これは演出面の話でもあるんですけど、“逃げた兵士”を追って、日本兵が病院に入ってきちゃう、というシークエンスがあるんですね。
緊張感があって、しっかり作られたシーンなんですけど、ここで、例えば「手術室に入ってきた日本兵が、そこにいた大勢の中国人たちの視線に、思わず怯む」とか、そういう描写があれば、もっともっと深みが出て来ると思うんです。

怯えが生む暴力性。

虚勢、とも言いますけど。

中国人たちの無言の圧力に怯えた兵士が、思わず、無差別に発砲してしまう、という、そういうシーンになっていればな、と。

演出的には、ホンのちょっとのアレなんですけどね。
でも、ストーリーに深みを加えていくのは、そういう、ちょっとした部分のアレなワケで。

そういう“浅さ”みたいなのは、ちょっとマイナスポイントではないかなぁ、と。



あと、これは作品本体とは関係ないんですけど、普通に字幕に脱字とかあるんですよねぇ。
日本での公開の経緯云々を考えると、しょうがないっちゃしょうがないんですが、作品に対する熱意なんかを思うと、ちょっと残念。
あと、セリフに対して、字幕が出るのが、微妙に遅い。
この違和感みたいなのは、俺だけのアレかもしれませんが、若干気になりました。

まぁ、そういう細かいアレも、さておき。





その、「中立地帯」というのは、「ユダヤ人のゲットー」の、逆の意味でのメタファーなワケです。
ヨーロッパでは、ナチスドイツがユダヤ人を、街中の「ユダヤ人地区」に押し込んで、最終的には虐殺したワケですけど。
南京では、その逆。
日本軍が侵攻してきて、ドイツ人が市民を、街中の「中立地帯」で救う。

これは、現代のドイツ人にとっては、ある種の救いでもあるワケで。

要するに“そういう作品”なんだろうなぁ、と。



ドイツ人にも正義の為に働いた人間がいて、という。
日本軍の中にも、虐殺を命じた人間とそれを実行した人間がいて、命令に苦悩した人間もいた、という、それと同じ構図がドイツの側にもあって、と。
そういう構図を描くことで、少なくともドイツの中には、救われるような気持ちになる人間もいるんだろうなぁ、と。

もちろん、それで全然良いワケですけど。




作品全体としては、良い作品ですよね。
佳作って感じで。

セットもちゃんと作り込んでて、特に砲撃を受けた後の廃墟は、良かったです。


自主上映、という形も含めて、貴重な、良い映画体験だったなぁ、と。

そういう感じですね。



機会があれば、ぜひ観てみて下さい。














2014年12月4日木曜日

「日本列島」を観た

京都文化博物館フィルムシアターの宇野重吉特集上映で、熊井啓監督の「日本列島」を観た。


65年公開のモノクロフィルムの作品で、いわゆる“黒い霧”系のサスペンス、ですね。
面白かったです。


主演の宇野重吉が演じる人物は、在日米軍のMPの通訳を務めている、というキャラクターで、軍の関係者(当然、アメリカ人)が巻き込まれた“未解決事件”の調査をして欲しい、と、アメリカ人の上司に依頼される、というのが話の起こり。


まず、ここが新鮮だなぁ、と。
右向いても左向いても警察官なワケですよ。最近は。

元英語教師の、占領軍の通訳。

“相棒”役に、二谷英明が居るんですけど、彼は新聞記者。
未解決事件を“特ダネ”として追いかける記者なワケですけど、彼の、警察組織との関係性の描き方も、面白い。

そもそも事件が“未解決”なのは、日本の警察とアメリカ軍との間での“綱引き”みたいなのがあったからで、それも、“現場”と“上層部”で捻れがあって、とか、そういう感じで。


戦争当時の“遺産”が、依然、日本の社会のあちこちに“残滓”としてあった時代なワケですよね。
闇として。黒い霧として。
戦争の“残滓”と、占領下の時代の“残滓”。

そして、当時未だ占領統治下にあった沖縄の存在。



そういう、社会全体に重く覆いかぶさっていた“闇”を、なんていうか、宇野重吉の苦り切った表情と背中が、巧く表現している、というか。



元英語教師、という人物なんですね。
で、調査の過程で、教え子と出会ったり、“被害者”の娘と擬似的な親子関係を結んでみたりしながら、しかし、事件の調査自体は、いつもどこかで“何者か”によって遮られてしまう。

主人公は、ある“過去”を背負っていて、というより、引き摺っていて、なんていうか、“虚無”に陥っている、という背景があって。
ある種のニヒリズムを背負って生活している、と。



その、主人公がニヒリズムに陥っている状態からの、「人間性の快復」が、ひとつあるワケです。

それは、“日本列島”自体の「戦後の(精神的な)復興」のメタファーとして語られ得るんでしょうけど、まぁ、そういう諸々を背負って表現するに相応しい俳優なんだな、と。
宇野重吉という存在は。



そういうストーリーとその背景にある“物語”の他に、個人的にハッとしたのが、なんていうか、シャープな画作り、という部分ですね。


一番良かったのが、小学校の屋上に立ち尽くす女性教師を、さらに上方から見下ろして捉える、というショット。
グラウンドの先の校門から出て行く“訪問者”の後姿を、“被害者”の娘である女性教師が見つめている、というショットなんですけど、これはかなりグッときました。

ストーリーの舞台は、恐らく東京の多摩地区にある横田基地なんですけど、それにちなんで、背景に「多満自慢」の看板が出て来るカットがあるんですけど、個人的には(八王子出身なもんで)、ちょっと嬉しかったです。
多摩から横浜、そこから、江ノ島っぽい島影が出てきたり、新宿と思わせるような画があったりして、何気にどこも個人的に所縁がある場所だったりして。

ま、それは本筋とは関係ないですね。
あしからず。




ひとつ思ったのは、この時代(まで)の女性の立ち振る舞いっていうか、なんか物凄く抑制された身体性、というのを感じたんですね。
性的な事ではまったくなく、歩き方とか佇まいとか、姿勢とか仕草の話なんですけど。
“マナー”とか“躾”みたいなことだと思うんですけど、そういう姿が、なんか、ストーリーに絡み合って浮かび上がってくる、というか。

感情を抑えて、押し殺して、しかし、こみ上げてくる感情の波というのは確かにあって、「人前では憚られるから」みたいな、そういう抑制を自ら効かせつつ、しかし、という。

戦争だとか国家の犯罪だとか、あるいは陰謀だとかに翻弄されながら、しかし、必死に自分の足で立って生き抜いていこう、という、所謂欧米流のフェミニズムとは少し違うニュアンスを抱えた「自立した女性像」なのかなぁ、という感じで。




というワケで、個人的にも色々収穫の多かった映画体験でした。
さすが名作。良かったです。