2007年7月15日日曜日

周回遅れ寸前

あやうく周回遅れになるところでしたが、書こう書こうと思ってて、ようやく今日書きます。

先週の日曜日(8日)の朝日新聞より。まずは23面(ページ、ということです)の、中園ミホさんという脚本家の方のコラム。山田太一さんについて。山田さんの“お言葉”をいくつか引用してまして。
山田さん曰く
「脚本家はオリジナルを書かなきゃ、脚本家じゃありません」

さらに、これは山田太一ドラマでのセリフで
「洗練、成熟というものは成長の止まったじいさんに任せればいい」

それを受けて、中園さん
「脚本家はきっと、諦めた時に成長が止まる。山田さんの作品は年々、尖っていく」


お次は、その裏面の、24面にて。寺山修司の特集記事。
ありとあらゆるジャンルに手と足と口を突っ込み続けた寺山のその振り幅の大きさの裏にあった通奏低音とは何だったんだろうか、ということで、「『そんなもん、ないよ』と彼は一笑に付すだろうけど、たくさんある候補の中で、一つは、いい意味での『嘘』あるいは『虚』への執着、もう一つは『偶然』へのこだわり」では、と。

寺山曰く
「未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならば出来る。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ、人は現在の呪縛から解放されるのである」
これが、“いい意味での『嘘』と『虚』である、と。
さらに寺山の言葉。
「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」
「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」
「必勝を獲得し、偶然を排したとき、人は『幸運』に見捨てられ、美に捨てられる」

寺山はこの、“嘘”や“虚”、そして“偶然へのこだわり”によって、“現実”や“私”を揺さぶっていた、と。

寺山曰く
「どんな鳥だって 想像力より高く飛ぶことはできないだろう」


その、寺山修司へ、なんと山田太一さんが登場してきて「大学に入ってきた時の同級生です」というコメントを。

えぇ!?

山田さん曰く
「僕が、普通に生きている人の人情のディテールを捨てない方向にいったのは、彼への対抗表現だったかもしれません」

そして、山田さんの「早春スケッチブック」というドラマを寺山が観てた、ということで、
「日常的な生活を批判する男が出てきて、普通の市民生活を送っている家族が揺さぶられる話なんです。揺すぶる方のモデルが自分で、揺さぶられるのが僕だと思ったらしい」

これは、すごいですよね。こんな同級生。

ここで終わらず、もう一つ。その次の25面。河瀬直美監督のインタビュー。
「国や文化が違っても、同じ人間としての本質が取れているかどうか」
「人間が心の奥で欲している『リアル』に届いているかどうか。だから、自分が実感を持てないことをやっても、何も突破できないのだと思いますね」
「私自信が持っている実感や表現したいことは、目には見えない。それを映像に焼き付けていくには、スタッフワークがとても重要だと思うのです」
「不器用でも自分の思っていることは言葉にしなくてはならない、さらけ出してコミュニケーションしなくてはだめだと分かるようになりました」
「不思議なことに、ゆるぎない信頼関係は空気となって画面に写る、と私は思います」


長くなりましたが、これは、自分の為の“記録”ですな。完全に。

なかなか不思議な朝日新聞でした。

2007年7月14日土曜日

「ゾディアック」を観た

この間観た、デヴィッド・フィンチャーの「ゾディアック」の感想です。 正直、客観的な評価は分かれる作品かもしれませんが、個人的には大満足。 年代がちょうど“その頃”ということで、冒頭から、サントラで使われている曲も、今個人的に一番はまってるジャズファンク系で、まずそこでニヤリ。 ちょっと長めのオープニングなんですが、ま、演出として、その辺で時代設定をする、ということなんでしょうが。 フィンチャーと言えば「セブン」ですが、本作にも“図書館ネタ”が出てきて、「セブン」を思い出してニヤリ、みたいな。 それから、やっぱり、“暗闇”の使い方ですよね。多分“電燈”というか、町中がまだ暗かった時代ということもあって、ともかく暗い中で進んでいく感じが良かったです。雰囲気があって。 生意気ですが、ああいう“暗闇”の使い方は、自分が目指している所でもあるんで。 若干、これみよがしな感じのCGカットがあって(二ヶ所くらい)、それは鼻についたかな・・・。 色としての“暗闇の黒”はたっぷりですが、ただ、今回は、“心の暗闇”という部分の描写は全くないですね。そういう意味でのサスペンス性はありません。 ともかく犯人側は、“犯人像”があるだけで、“肉迫”とか、“追い詰める”的なことは、まぁ、あることはあるんですが、あんまり力点はおかれてなくって、言っちゃえば、“追いかける側”の、例えば友情関係とか、人間ドラマとか、そういう方を描いている作品ですよね。ま、全然良かったですけど。 捜査陣側の人間は、当然、みんな男なんですが、その辺の描き方も「セブン」と重なる部分ですよね。それは、監督本人の指向なのか、それとも、もしかしたら、マーケティング的な要請なのかもしれないなぁ、と。 なんていうか、実話を基にしてるっていうのもあるんだろうけど、“犯人を追い詰める”という部分では、シナリオ的には若干弱い、というか。スターも出てないし。なんで、その辺の要素を加えて、初めて、成立するシナリオなのかも、と、思いました。 う~ん、でも、「ファイト・クラブ」もそうだけど、やっぱり監督本人が、そういう、男同士の“絆”みたいのが好きな人間なのかも。 と、そんな感想でした。 とにかく、黒、黒、黒。フィルムの質感。そういうので雰囲気を作っていく、と。 

2007年7月12日木曜日

「アサシンズ」を観る

「憎しみ」の、モノクロームの画とモノローグ、そして何発かの銃声音で、一躍名前を挙げた(カンヌも獲りましたね)、マシュー・カソヴィッツの、その「憎しみ」の後の作品。
ま、前作の評価が凄かった分、それとの比較になるのは、ある程度はしょうがなくって、ここでもやっぱり、そこから入るんですが。

前作は、それはモノクロだったっていうのも当然あるんだけど、もの凄いシャープな画で、今作は、それとは対照的に、まるで16㎜みたいに(言い過ぎ?)、粒子の粗いザラザラした質感。
ひょっとしたら、シャッタースピードをちょっと遅くしてるのかもしれない、と、思うくらいに、ブレて残像がチラチラ出るくらいだし。
この辺は、自分の技巧を誇示してるって感じ。まぁ、もちろん、効果的なんですけどね。狙いに沿った、当然、これも演出の一環であろう、と。

演出で言うと、補聴器やテーブルクロスを巧く効かせたりして。
この辺は、何ていうか、暴力的だとか、社会派だとか、色々、外野から貼られるレッテルの文言ばっかりに目がいきがちだけど、ちゃんと踏まえるべき文法は踏まえているんだよねぇ。
この辺は、非常に勉強になりますな。

時間軸の操り方も上手。具体的には、回想やフラッシュバック、そして得意の、1カットの中でサラッと時間の経過を表してしまったり。

ストーリーは、なんていうか、特に前半部分は、キャラクターがボンクラなのもあって、ドライヴ感がちょっとなくって、イマイチ。
ま、それも、恐らく、フリということなんでしょうが。

この、タイトルに複数形の“S”が付いてる所がミソで、まぁ、軽くネタばれしちゃうと、“2人”なんですが。
ちなみに、3人目は、“見習い”扱い。

その、2人のアサシンのうちの一人が、アクセル全開時の津川雅彦のような存在感で見せる、老ヒットマン。
求道者かのような口ぶりで、しかし、俗まみれ、ルサンチマンだらけで、迫りくるその老いに恐れおののきながら、それでも必死に自分の生きてきた証を、その技術を誰かに継承させることで残そうと、必死にあがく、という。

もう一人が、まぁ、少年なワケだけど、最後、学校(正確には、校門の外)で銃を撃ちまくる姿は、例えばアメリカの銃乱射事件を思い起こさせたり。
まるで予言のようだけど。
つまり、ある意味では現代社会こそが、極めて優秀な殺人者の養成システムなんだ、と。

そういうラストに向けての、ホントに最後10分くらいで一気に持っていく感じ。

実は、この人は、なんていうか、非常にベタな着想ばっかりだったりもするんだけど、一番最初の、目線の置き方、着眼点の置き所、みたいのがね、もの凄い良いんだろうなぁ、と、思います。
そこから、技巧でそれを支えることで、一つの商業映画として成立させている、と。
ま、俺なりの分析でした。