2008年12月31日水曜日

「スナッチ」を観る

ガイ・リッチー監督の「スナッチ」を観る。

ま、ブラッド・ピットとベニチオ・デル・トロの共演っつーことでちょっとだけ話題になってたりした作品ですよね。
つーか、最近だとガイ・リッチーがマドンナと離婚して慰謝料をがっつり“戴いた”というニュースで話題になってたり。
ま、それはさておき。


結構期待して観たんですけどねぇ。
あんまり面白くなかったっス。



なんちゅーかねー。
やっぱ、編集が上手で、その辺の「切り刻み方」なんていうのは凄い巧いなぁ、なんて思うんですけどね。
なんつーか、全部、ただ流れていくだけ、という感じがしちゃうんですよねぇ。
「どこに喰い付けばいいんだい?」みたいな。

群像劇なんで、まぁ、個人的に群像劇が凄い好きっていうのもあるんで、その、そういう種類の物語の受け取り方、みたいなのは心得てるつもりではあるんですけど。

とりあえず間違いなく言えるのは、「何を語るか」ではなく「いかに語るか」の“いかに”が主題である、と。
「“こういう話”を“こんな感じ”で語ってみました」という、“こんな感じ”に。

で、まさにそこがキモなんだけど、実はちょっとだけ既視感があったりして。



う~ん。
違うのかなぁ。
そういうことじゃないのかなぁ。


要するに、長い物語を構築できないんですよね。きっと。監督の資質として、なんですけど。
短いプロットを編み込んで、長い作品に仕立て上げる、と。
その為には、大勢の登場人物が必要だし、語り口もこういう風になるし。
で、そういう“構造”が“構造”だけになってしまってる、と。
ブラピの「復讐の物語」と主人公の「無常の物語」、ダイヤ商と黒人たちの「ダイヤをめぐる冒険」。
絡み合ってない、というか。主題が。
ストーリー自体は、絡み合ってるんだけどね。でも、それはただ、時間軸が切り刻まれて、繋がってるだけで。
「共鳴」してない、というか。

そこら辺が、物足りない感じがするんです。


スタイリッシュだとは思うんですけど。ホントに。


まぁでも、こういうのを面白いって感じる時もあるしなぁ。
ただの個人的な流行りとか好みのアレなのかもしれませんね。


ま、イマイチ、ということで。

2008年12月28日日曜日

「椿三十郎」を観る

森田芳光版の、つまり織田裕二主演の「椿三十郎」を観る。 う~ん。 リメイク、ということで。 まぁ、すげぇ面白いんですけどねぇ。それは。 成功かどうか、ということであれば、それは成功した、という感じなんでしょうけど。 やっぱり、シナリオの筋立てが面白いんですよねぇ。それに尽きちゃう、という気がしてしまう、という。 それはリメイクの場合、あんまし関係ないかも、と。 ただ、やっぱり時代劇ってまだまだすごい可能性があるんだって、これはもう何年も前からずっと思ってることなんだけど。 北野武監督の「座頭市」、山田太一監督の藤沢周平原作の一連の作品、是枝裕和「花よりもなほ」、そしてこの森田芳光監督。 時代劇ルネッサンスって、ポロポロ芽になりそうな作品はあるんだけど、大きな潮流にはなってないですよね。「あずみ」や「どろろ」は、また違うんだろうし。「鬼太郎」もね。 それから凄い思ったのは、やっぱりトヨエツ。このダークヒーローっぷり、というか。 目元に漂うニヒリズム感っていうのは、ホントに唯一無比って感じで。好きです。 声も。 織田裕二は、どうなんでしょうか? 三船敏郎とどうしても比較しちゃうんだけど、それだと、織田裕二という俳優を真っ直ぐに見れないような気もするし。でも比べちゃうのも、自然な見方だとも思うし。 個人的には、セリフの言葉と本人の演技が、いまいちしっくり来てない、という気が。 間がハマってない、というか。 例えば、佐々木蔵之助や西岡徳馬なんか、ホントにハマってて、改めて“腕”を見せつけられた、という感じなんだけど。 ハマってない、ということで言うと、鈴木杏もいまいち。顔の造りとヅラがフィットしてない気もするしね。 なんか、額から上のバランスが合ってなくないっスか? それからもう一つだけ気になったのは、音がキレイ過ぎる、ということ。もうちょっと“汚し”があっても良かったな、なんて。雰囲気を出す、という意味では。 「パパーン!」じゃなくって「ヴァヴァ~ン!」みたいな。ホンのちょっとだけ、ヒズミやユガミがあると、音が太くなるんですよね。 ま、それは勝手なアレです。 音楽自体は、もちろん素晴らしい。間も含めて。 殺陣は、良かったですよねぇ。斬れ味がシャープで。 “疲労”という新機軸を打ち出してるってことだったけど、それも良いし。死体を映さない、というアングルワークもいいし。 もちろん、ラストの、十字路での対決も、素晴らしい。 うん。やっぱりトヨエツが効いてるような気がします。織田裕二より背が高いんだ、みたいな驚きも含めて。 あの立ち姿とか、髷の似合いっぷりも、良いし。 繰り返しになりますが、時代劇って、もっともっと可能性があるハズ。 うん。 

2008年12月21日日曜日

「ラスト・キャッスル」を観る

ミッドナイト・アートシアターで、ロバート・レッドフォードが主演の「ラスト・キャッスル」を観る。


なかなか面白い作品でした。
舞台は、軍の刑務所ということで、かなり大掛かりなセットの中で、延々と男ばっかりが出てきてワッショイワッショイやるんですが、しっかりとしたテーマもありつつ、ドラマもありつつ、カタルシスもありつつ、「明日に向かって撃て」的なオチもある、という。


レッドフォードは、命令を無視して独断作戦を決行して、それが失敗して部下を(8人)殺されてしまうという“過ち”を犯して、軍の刑務所に服役する、という役柄。彼は「歴戦の戦士」で、軍関係者にその名前が広く知れている、という。

この、設定の“案配”が、凄い良くって。
軍人だから、その階級というヒエラルキーがあるんだけど、それと同時に個人の人格が集める“尊敬”というのがあって。
それから、舞台が刑務所なので、看守側と受刑者たち(作中では「プリズナーズ」って言われてます)の関係があって。
この「関係性」が激突する、という。人間関係という「構造」が激突する、というか。

冒頭、所長の軍事コレクションみたいのがあって、それを、“受刑者”である主人公が、「戦場経験のない人間の好む趣味だ」みたいに言うんですね。
このセリフが、まぁ、セリフ自体の説得力もそうなんだけど、作品の中に観る側を一気に引き込む、かなりキラーなセリフ、というか。

また、このイントロダクションの作りが良くって、5分くらいで全部一気に説明しちゃうんですよ。舞台と、背景と、登場人物のだいたいのところを。
で、そこまでくると、だいたい何が起きるか、分かっちゃうんだけど、でも、全部説明しちゃう。
舞台も、最初から最後まで、ずっと刑務所の中だし。(しかも、独房とグラウンドと、所長室、あとは食堂ぐらいしかでてこない)


階級というか、それを示す、肩章か。
肩章に支えられたヒエラルキーと、個人に対する尊敬に裏づけされたヒエラルキーが激突する。

面白いのが、「敵役」の所長が、例えば私利私欲というか、裏で違法にカネを儲けてる、とか、そういう人物じゃない、という部分ですね。いわゆる、普通の悪人のようには描かれてない。
彼は彼なりに、実は正義を遂行している人物で。
ただ、作中では「バトル・フィールド」って言葉で言われてましたが、実戦の経験がない。例えば心理学とか、そういうのを学んでる、みたいな描写もあって。
そういう「指揮官」。


この「指揮官」というのが、作品のテーマなんですね。

カリスマの周りに、他の人たちはホントに自然に集まってきちゃうんだけど、しかし同時に、担がれたカリスマというのは、彼らの生命や人生をも背負ってしまう、と。
まぁ、リーダーとは、そういうモノなんですけど。

所長に対抗することになる主人公は、ガッツというか、精神力というか。懲罰に、衆人環視の中で、耐え切ってしまうことで、逆に尊敬を集める、とか。
それから、言葉。「黙ってついてこい」じゃなくって、周囲の“兵卒”たちの士気を高めてしまう言葉を持っている。
そういうのは、資質もそうんだけど、経験によって身につけたものでもあって。それは、戦場での、ということなんだけど。所長には決定的に欠けているのが、それで。

という描写がなされるワケですね。


彼に感化される、彼の戦友の息子、というクセ者が出てくるんですけど、彼のビルドゥングス・ロマンもなかなか良くって。



う~ん。
なんか、うまく説明出来ませんねぇ。



ちょっと切り口を変えると、ワリとリベラルなスタンスを持っているレッドフォードが、こういう軍人(しかも、歴戦の勇士)役を演じるっていうのは、ちょっと意外な気もするんですけどね。

でもまぁ、彼は彼なりの愛国心というのがあって、それの発露ってことなのかもしれませんね。

でも、「実戦経験がない司令官」というのは、今となっては、ブッシュの暗喩だったりして、面白い。



あ、あと、所長の鼻息がずっとシューシュー聞こえる、という演出は良かったです。ボンクラっぽくって。話しかけても1回必ずシカトするところ、とかも。


あとはなんだろうなぁ。
カメラワークも、上手。これはホントに、デカいセットの中で撮影する、ということが巧く働いている、ということなんでしょう。きっと。(この間の“トークショー”で、その辺を勉強してきたばかりでした)
グラウンドと、そこを見下ろす所長室や監視塔の、上下の位置関係みたいのを利用したショットは、とても上手でした。いっつも、チラチラそっちの方を見上げてる、とかね。


でもホントに、これはシナリオの、というか、企画の勝利なんでしょうね。刑務所のセットの中で丸まる撮る、という。
しかも、ただの刑務所じゃなくって、軍の刑務所だ、というところが。

普通に描こうとしても、こういう複雑な関係というのは、なかなか難しいですよね。説明だけで半分ぐらい終わっちゃいそうだし。
それを「軍の刑務所」というだけで、オッケーになっちゃうワケですから。



うん。
脱獄モノもいいですけど、こういう刑務所モノも、いいですな。


という感じで。


2008年12月11日木曜日

「殺しのはらわた」を観る

吉祥寺のバウスシアターにて、篠崎誠監督の「殺しのはらわた」を観る。 いやぁ、良かった。 実は、この作品を観るのは二回目なんですが、まぁ、面白い作品ですな。 バウスシアターって(メインのスクリーンだけなんですけど)音がとにかく良くって。 この作品の良さの一つは、理由が理解出来ないほどの、(音楽も含めた)音の良さだったりして。 ま、この稀代のカルトムーヴィーを上映する、というトコもバウスシアターらしいですが、この作品の良さを劇場の音響システムが引き出してる部分もあるんだろうな、と。 ま、偉そうな口ぶりですが、適当に書いちゃいました。 とにかく、面白い作品なんで、“拝観”する機会があれば、ぜひご覧になって下さい。 個人的には、ホントに篠崎誠さんという方は、日本の映画界の最重要人物の一人だと思ってるんで。 ま、個人的なソレはさておき。 上映の後に、その篠崎さんと、「どろろ」の塩田明彦監督、それから佐々木浩久監督の3人の「活劇のナントカ」というお題での、トークショーがありまして。 いやぁ、個人的には、こちらでお腹いっぱい。 久々に「講義」を聴いた気がしちゃいました。 「映画とは動きの創造だ」 「演出とは動きのハーモニーだ」 ま、そんなキラーなフレーズがポンポン飛び出す、という。 昨日は出てきませんでしたが、「演出とは仕草の発見だ」という篠崎さんのフレーズも、俺の記憶の中にはあります。 ただ大袈裟な死に方や、血しぶきじゃなくって、カットの繋ぎ方や見せ方だけで迫力は出せる。 一つのカットの中に動きが複数あると、観てる側は興奮する。 ただ“文学的”なだけでなく、動き、アクションこそが“映画”じゃないのか。 などなど。 短いカットを繋げていき、最後のキメのカットを、つまり撃つ方と撃たれる方をワンカットの中で処理する。 ワンカット(長回し)が目的化しちゃってるんじゃなくって、長回しで生まれてくるダイナミズムこそが目的である。そしてそれを、スタッフやキャストがよく理解している。 感情がフレームの外に広がっていく。それは、「自分たちの地続きのところにいる人」というリアリティを生みだす演出のこと。 などなど。 「アクション」による興奮を提供するには、その、脚本段階からしっかりと“撮り方”“見せ方”を練りこんでおくこと、ということと、同時に、実際にカメラの前に俳優さんが立った時に、つまりいざ撮影するという段階で、演出側が、そこにふさわしい「動き」を発見できるかどうか。 いやぁ。 ハードルは高いんでしょうけどね。 ま、勉強になりました、と。そういう「講義」でした。 実は、その前の日に、ちょうど「続・夕陽のガンマン」を観てたのもあって。 それもあって「フムフム」の連続でしたね。 篠崎監督の、「自主製作時代に、こういう作品を作りたかったんだけど、なかなか出来なくって、それが今になって作れるようになった」という言葉も印象的でしたね。 「静かな人間ドラマでも良かったんだけど」という。 実は、当時の自主製作の世界の先行世代が、ちょっと目の上のタンコブみたいになってて、こういう作風はイマイチ評価されてなかった、みたいなことも言ってて。(いや、ちょっと詳細と意図は違う感じかもしれませんでしたけど) いやしかし、なんていうか、こういう「講義」って、とても面白いんだから、もっともっとオープンな場でガンガンやっていけばいいのにね。 雑誌の誌面だとか、映画ファン“業界”の中だけでやってるのは、もったいない。ホントに。 例えば、“動画”とトーク(あるいはテキスト)の組み合わせっていうのは、それがウェブ上にあれば、これはホントに相性が良いコンテンツとなるワケだしね。 まぁ、著作権の問題もいろいろあるんだろうけど。 でも、身近な監督さんの作品とかを使っても全然「講義」は出来るだろうし。“教材”として使われることが作品自体の商業的なアピールにもなるんだろうし。 ま、そんな話は蛇足ですね。 俺が知らないだけで、こういうのって、すでにたくさん行われてるんだろうしね。それで今のところの需要が満たされてるなら、それはそれでいいのかもしれないし。 というワケで、この辺で。 あ、最後に。 藤田陽子さんって、キレイですよねぇ。好きです。 

2008年12月8日月曜日

「ラウンド・ミッドナイト」を観る

ジャズ映画の名作「ラウンド・ミッドナイト」を観る。


まぁ、映画作品としてよりは、ジャズファンにとってのカルトムーヴィーみたいな扱いなのかもしれませんねぇ。
いい映画ですけど。

ハービー・ハンコックが作曲賞を獲った作品ですけど、彼もバンド・メンバーとして出演しています。(なかなか演技は上手い)


多分低予算というのもあったと思うんですが、特に前半のパリでの、暗鬱とした展開が続く部分では、ホントに地味な画がずっと続きます。
狭い部屋、狭いクラブ、狭いステージ、狭い客席、狭いアパート。

が。
ストーリーは、“愛”と“信頼”によって、主人公が蘇えっていくという風に展開するんですが、それに合わせて、画もカラフルさを「取り戻して」いく、という。

途中途中で挟み込まれる8ミリの映像も素敵だしねぇ。
特に、海岸での3人のショットはいいです。そんなに長い時間じゃないんだけど。


あとは、なんだろ・・・。
やっぱり、ディテールの微妙な部分が、ジャズを、というかジャズ史を少しかじってる人じゃないと分からない、というトコがあるのかなぁ。
麻薬のディーラーがウロウロしてたり、とか。(当時、彼らにとってジャズプレイヤーというのは最重要な顧客だったりしたんですよ)


でも、セリフも普通にカッコいいんだよね。
特に、酒を断つと決心するシークエンスは、超クール。



それから、もう1人の主人公(デザイナー)の、奥さんとの関係ですかね。「私は霊感じゃなかったの?」と。
作中で「霊感」と訳されているのは、「インスピレーション」ですね。
彼もアート系の職業なワケで、仕事のためには、そういうものが必要になってくるワケで。
彼が、老ミュージシャンを立ち直らせる過程の中で、彼自身も刺激を受けて、つまりインスピレーションを受け取るようになって、仕事が認められていく、という。
奥さんとの生活の中からは、それは得られなかったワケですね。
うん。
そういう意味では、見方によってはちょっと切ないかもしれませんね。


でも、なんつーか、「愛」もアートなのかもね。「愛」というか、「恋愛」というか。「結婚生活」というか。
でも、「アート」だから、易々と、他の「アート」に取って代わられてしまう、というか。
逆に言うと、それを両方ともは、得られない、というか。


まぁしかし、いい映画ですよ。
もちろん、音楽も。


個人的には、主人公が“失踪”しちゃったシークエンスの、緊張感を演出するための曲が、最高にクールでした。
サウンドトラック、欲しいなぁ。



ちなみに、個人的な「ジャズ映画」のベストは、「ジャズ・ミー・ブルース」という作品です。あんまり有名じゃないけどね。




2008年12月5日金曜日

小津さんについて。「自然主義でなく・・・」

新聞に、ドナルド・リチーさんという人のインタビューが載ってまして。


リチーさん(リッチーさん?)という方は、有名な方らしいんですが、俺は知りませんでした。
もっとも、顔と名前を知らないだけで、この人の文章にどこかで触れたことはあったのかもしれませんが。
ま、それはさておき。


友人の川喜多かしこさんに誘われたのは60年のことでした。松竹の大船撮影所で小津安二郎監督の「秋日和」の撮影を見学できるというのです。最も敬愛する監督だったから、喜び勇んで出かけました。


原節子の母と司葉子の娘が、伊香保温泉の旅館で会話する場面の撮影でした。全部で7分ほどの場面のために立派なセットが組まれていた。やっぱり小津組は別格なんだと感じました。
ところが、どうも様子が変なのです。2人の会話なら、ふつうは片方の位置から相手の芝居をまとめて撮り、次は反対側から同様に撮って、編集で一つにつなぐもの。でも、小津組の撮り方はまったく違いました。
役者がひと続きのセリフを言うごとに、「カット」と小津さんが声をかける。しかも撮影の厚田雄春さんにカメラの位置を変えるよう指示するのです。「もう1センチ、いやもう2センチ上かな」。
非効率きわまりない。うまくシーンがつながるのか心配になりました。
女優はその間じっと待っています。これから感情が高まる場面なのに、これで芝居ができるのか。案の定、司さんは泣く場面で涙を流せませんでした。戸惑う彼女に、小津さんは言いました。「涙はいいから。こうやって顔を覆ってごらん」
完成した映画を見て驚きました。バラバラに見えたカットが、独特のリズムをもって息づいている。微妙な構図の変化が情感を際立たせている。スーラが無数の点で絵を描いたのと同じことを小津さんはしていたのです。
自然主義ではなく、技巧を尽くして真実に迫る――日本映画の美学について大きな教えをうけた体験でした。

にゃるほどねぇ。


前に、是枝監督の講義を受けたときに、悲しく見える演技が出来ないなら、そう見えるように撮ればいい、と是枝さんが言い放っていたのを、結構強烈に覚えていて。
多分、同じことっスね。


「自然主義ではなく、技巧を尽くして真実に迫る」。
けっこうスゲェ言葉。心に刻みます。

2008年11月24日月曜日

「明日に向かって撃て!」を観る

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの、というよりも、アメリカン・ニューシネマ期の屈指の名作「明日に向かって撃て!」を観る。


まぁ、傑作とか言いつつ、実はただ逃げ回ってるだけなんですけどね。2人が。
落ち目の2人が、なんだか惨めに追われまくって、そして死ぬまで、と。

老いを感じながら、顔も知らない追っ手を恐れながら、愛する女を捨てながら、最後には、言葉も通じない国で、無数の弾丸を撃ちこまれて死ぬ、という。
ただの愚かな犯罪者の物語。


じゃあ何がこの作品を傑作にしているのか。




何なんでしょうねぇ。ホントに。




部下を守ることすら出来ず、自分の女を守ることすら出来ず、泳ぐことすら出来ず、スペイン語を話すことすら出来ず、ただ自由に生きて、ただ死ぬだけの物語。




まぁ、P・ニューマンがメチャメチャかっこいい、というだけの理由では、ヒットもして歴史にも残って、という評価は得られませんからね。


じゃあ何か。


「そういう物語」を描いたから、という風にしか、俺としては言えないんですけど。
ま、ホントに素敵な作品ですよ。


音楽とか、あとは普通に、アメリカの西部のあの大地の広さとかも含めて。



あ、あと、改めて思ったのは、人間関係がシンプルなんだな、という部分。
なんせ、敵役の保安官は最後まで顔が出てこないし、ボリビアの警官や軍人たちにいたっては、言葉が分かりませんからね。
余計な説明はしないし、それはイコール、余計なカットを撮らない、ということだし。


で、その追跡中のシークエンスの構図は、いちいち、勉強になりますな。ホントに。



うん。
まぁ、感想っつってもこんなもんス。


2008年11月23日日曜日

「アモーレス・ペロス」を観る

「バベル」で思いっきり考え込んでしまった、イニャリトゥ監督のデビュー作「アモーレス・ペロス」を観る。


いやぁ、しかし、これはホントに、凄い作品だなぁ、と。改めて。
ホントに好きっス。

特に、闘犬場から自分の車へ犬を運んで、また戻って、ナイフで刺して、また車へ走って逃げて、を、ワンカットで見せるあのシークエンス。痺れる。ホントに。



で。

とりあえず、「バベル」はやっぱり、メッセージとしては若干後退してんじゃねぇのか、と。そういう風に思いました。やっぱり。

この作品の3人の主人公、つまり、若者(少年と青年の間ぐらい)、中年、老人の、3人の男が3人とも、最後は独りになってしまう、という結末に、俺は震えたのであって。
そして、「孤独」であることの悲劇性が一番強いはずの、老人が、「また会いに来る」という“メッセージ”を残して、そして、地平線に向かって“自分の脚で”歩き出す、という、そこの部分こそが、この作品の核だと思うんですよ。
「アモーレス・ペロス」とは「犬のような愛」という意味らしいんですけど。


犬のように愛し合い、と。
犬のように殺し合い。

そして最後は、犬としてではなく、ヒトとして泣け、みたいな。
「犬のような愛」が失われて初めて“ヒト”になる、とか、そんな感じ。

この作品のメッセージって、そういうことなんじゃないのかな、と。改めて、ですけど。



「バベル」はなぁ。なんだろうなー。
絶望の深さというか、不条理の質というか、そういうのが、いまいち弱い気がするっちゅーか。
自分でも上手くこの違和感みたいのをぴったりくる言葉で表現出来ないんですけど。


「21グラム」で描いた、真っ暗闇の泥沼から最後に手を伸ばしてギリギリで這い上がってくる、みたいな希望の描き方とも、ちょっと違うし。


う~ん。
いや、「アモーレス・ペロス」の感想じゃなくって「バベル」の感想になってますけど。

うん。普通に、「バベル」だと、「で、その三つが繋がってどうする?」みたいな感覚もあったりするんですよね。正直。「意味あるか?」みたいな。
まぁ、繋がってるからこそ「バベル」っていうタイトルなのかもしれませんが。
でも、別に繋がってなくても言いたい事はきっちり言えるんじゃねーの、とか。
いや、そういう話じゃないっスね。
やめます。



「アモーレス・ペロス」も、「三つの物語」に分かれているという形になってるんですが、実は正確には、「四つ」なんですよね。ガルシア・ベルナルのお兄さんの物語が、実はちょっと独立した形で、ちゃんとあって。
個人的には、結構そのシークエンスが好きです。

自分の奥さんに暴力を振るってしまったり、職場でガンガン浮気しちゃったり、強盗を働いてたり。
彼は彼なりに、自分が背負わされてしまっている不条理と闘ってるワケで。





その、なんていうか、要するにシナリオがいいってことなんスけどね。
これは、イニャリトゥ監督が書いてるんじゃなくって、別の人が書いてるんですけど。(「バベル」もそう)
だからまぁ、イニャリトゥ監督についての話じゃなくって、シナリオを書いた人についての話なんですけどね。延々書いてんのは。



しかし、よくこんなシナリオ書けるよな。ホントに。
それは、テーマもそうだけど、構造的にも。

あの、子犬が床下に迷い込むエピソードなんて、ほとんどギャグの世界に近い。というか、普通に考えたら絶対に思いつけない発想だと思うんですよ。

でも、作品中の全てのトピックが、結末に向かって、どれもしっかりと機能してるワケで。



その、あまりに深すぎるシナリオを、情け容赦なく、エネルギッシュに、正確に(時には無理やり)描ききる、イニャリトゥ監督、と。




いやー、なんだかグチャグチャの文章になってしまいましたね。
お恥ずかしい。
でも、ご勘弁を。


機会があったら是非観て下さい。ホントにいい作品ですので。


2008年11月17日月曜日

「アイランド」を観る

マイケル・ベイ監督、主演はユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンの「アイランド」を観る。


主人公が、クライアントのDNAを完コピしたクローンで、その為の「培養施設」から脱出して、というストーリー。
説明するとちょっとややこしいんですが、クローンには、架空の“歴史”と“記憶”が刷り込まれていて、そこに疑問を持ったことから始まる、と。

ストーリー上に、幾つかポイントがあって、ひとつめはその、記憶が捏造だった、という部分ですね。「マトリックス」や「トータルリコール」と同じ感じ。

2つめが、主人公が、クライアントに臓器を提供したり、代理で妊娠・出産したりするために作られた、オーダーメイドのクローンだった、という部分。で、その“コピー”に過ぎないクローンにも、DNAの提供者であるクライアントの記憶が宿ってしまっている、と。そこはあんまり強調されてないんですけど、結構ポイントだと思います。

3つめが、逃亡した主人公の2人を追跡する、黒人のエージェント。彼の登場シーンが超クールで、「うわぁ、カッケー」なんて思ってたら、最後に、彼のポジションが反転して、という。個人的には、この展開が一番良かったですねぇ。「焼き印」がキーになってて。

その、クローンの立場が、ナチスに迫害されたユダヤ人たちのメタファーにもなってたりするんですね。
強制収容所のガス室だとか、解放されたシーンなんかも、そうだし。

クローンの置かれた立場を、民族的に差別されてきた黒人やユダヤ人のメタファーとしても描いてる、と。

そういうポイントを押さえてる、ということで、実はそれなりに深みのある作品だったりして。




というより、この辺をもっと深く描けば、全然違う作品になり得る「テーマ」ですよね。
なんせマイケル・ベイですから、そういう、優れたテーマや設定なんかも丸っきり、惜しげもなく、カーアクションやら空中戦の為に消費しちゃうんですけど。(まぁ、それで全然いいんですけどね)


でも、「ハンバーガーになる前の牛を見たいか?」とか、クローンのクライアント(当然、ユアン・マクレガーが二役で演じる)が全然“善い人”じゃなくって、とか、その辺の細かいところも良かった。

S・ブシェミーが出てくるあたりは、結構、雑な流れだけど。



やっぱり、「クローンの記憶」って、面白いトピックだよな、と。
「記憶」については、それが捏造可能であり、外部から“インストール”することも可能だろう、ということになってきてるし、さらに、個人を取り巻く環境、つまり「世界全て」が丸ごとニセモノで(シミュレーテッドリアリティ)、という設定も、物語の素材としての有効性はますます強くなってるしね。



うん。
いや、実はこの作品で“消費”されてしまっているアイデアって、上手に使えば、もっと全然違う作品が作れるな、と。もちろん、もっとずっと低予算で。シリアスな感じで。
この「アイランド」自体が、そういう「既存のパーツ」で造られてるストーリーだし。
そういう意味でも、面白い作品でした。



あ、あと、やっぱりスカーレット・ヨハンソンは綺麗だね。
“ファーストキス”という設定は、彼女にピッタシですね。ホントに適役。




2008年11月16日日曜日

「エピソード4 新たなる希望」を観る

パチンコのダースヴェーダーが出るCMを見たら、なんだか観たくなっちゃったので、「スターウォーズ」を観る。


まぁ、面白かったですね。ホントは「指輪物語」を借りようと思ってたんですけど。
「指輪物語」は、また次ですね。


感想は、特になし。
ま、改めてどうこうってアレでもないですもんね。


2008年11月14日金曜日

「バベル」を観る

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」を観る。


この作品は、実はワリと最近観て、その時感想を書けなかったもんで、せっかくなんでもう一度、ということで。観ました。


書けなかったのには理由があって、要するに「う~ん」と唸ってしまったからなんですね。
「これってどういうことなんだろう」と。首を捻っちゃったりしちゃって。


いや、やっぱり、一つの映画としては、素晴らしいんだと思うんですけどね。賞も幾つも獲ってますし。


しかし、と。
俺にとっては、実は結構問題作かも。

テーマはずばり、ディスコミュニケーション。コミュニケーション不全、と。タイトルは当然「バベルの塔」を指すワケで、「神」によって、バラバラな言語を話すようになってしまった人間たちは、二度とひとつにまとまることはなかった、という。

作品では、「神」が制裁を下すきっかけになった、「神への挑戦」(としての、塔の建設)にあたる部分や、お互いの言葉が分からなくなってしまった瞬間だとか、そういうことは描かれてませんよね。

人は既に、お互いのことを理解することが出来ず、その“不全”を、延々と描く、と。



例えば「アモーレス・ペロス」や「21グラム」は、ホントに傑作だったと思ってて。
特に「アモーレス・ペロス」は、個人的にはホントに衝撃的だったんですよ。

そこで描かれていた(と、俺が受け取った)のは、なんていうか、絶対的な孤独、というか。
「人は孤独なんだ!」という“前提”の圧倒的な肯定感、というか。「絶望」とか、そういうモノを前にして、ただただ1人で震えるしかない人間の姿、というか。
砂漠のようなところに、放り出された人間。そこでは、自分の日本の足で立つしかないのだ、と。自分の足で歩くしか、前には進めないのだ、と。
その、「1人で立つしかないのだ」という慄然とした事実を経て、初めて、目の前の、例えば“愛する人”だとか、“家族”だとかと、心を通わせることが出来るのだ、と。
「徹底的に孤独であること」を引き受けることで始めて得られる、他者との、ある「関係性」。



この作品では、あんまりそういう深遠な苦悩の深みみたいなところには、誰も降りていかないんですよね。
いや、あくまで俺がそう受け取ったってことですけど。そういう気がする、というだけです。そこはあくまで。


前二作での、もうホントにどん底というか、暗闇の淵の一番底から、ホンの一筋の細い光を頼りに(うん。まるで「蜘蛛の糸」みたいに)、もがきながら絶望に屈しないように闘う姿、というのが、そこまではない、というか。

う~ん。でも、そんなこともないのかなぁ。


いや、でも、なんかそこのところは、ちょっと後退してる気がするんですよ。


ただ「ディスコミュニケーション」のシチュエーションを描いてるだけじゃないの、という。極論しちゃうと。



とにかく、テーマは「ディスコミュニケーション」。
アメリカ人とモロッコ人。メキシコ人とアメリカ人。日本語と日本語手話。

日本人の“善意”のプレゼントが、子ども同士の無邪気な意地の張り合いによる偶発的な銃撃を生み、その混乱が、息子の結婚式のために帰国しようとするメキシコ人家政婦の身に降りかかる、と。
その、三つがグルッと回って繋がってる、というのは、よく分かるんですけどね。

ただ、最後の結論が「家族」というトコに落ち着いちゃってないか、というのあるし。
メキシコ人の家政婦は、迎えに来た息子と抱き合うし、日本人の聾の女子高生は、裸で(これは、幼年期に帰る、というメタファーってことでいいんでしょうか?)父親に寄り添い、アメリカ人(ブラピ)は、息子の声を聞いて涙ぐみ、と。

日本人の刑事は、おそらく独身なので、“家族”がいなくって、独り、新宿の思い出横丁(a.k.a.しょんべん横丁)のカウンターで酒を飲む、と。その日に出会った女子高生のことを思いながら。



そういう結論でいいの?
まぁもちろん、俺が主旨を間違って受け取っちゃってる可能性もあるんですけど。


ハッシシで気持ちを落ち着かせ、エクスタシーで精神を高揚させ、みたいな、要するにそういうのを使って言葉の壁を超える、みたいな描写もあるし。
そういうことかい? と。(さすがにソレは違うとは思うけどね)


観光バスに乗ったアメリカ人たちのシークエンスは、マジで良かったけど。
あの胸くそ悪さは、マジで監督のメッセージなんだと思うな。
そういう意味でいうと、日本でのシークエンスは、全部ダメ。それはしょうがないんだけどね。俺がしょんべん横丁のあの辺を良く知ってるっていうのもあるから。それは。



人間は、お互いに理解なんか出来ないんだよ。それは、話している言葉が違えば、当然。
同じ言葉を話す、すぐ近くにいる隣人同士でも、机を並べているクラスメート同士でも、それは無理なワケで。

例えば「トラフィック」や「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では、お互いに違う言葉を話す(しかし永遠に隣人同士である)アメリカ人とメキシコ人の相克と、それを乗り越えたり克服しようとする「個人個人」の姿が描かれたりしてるワケです。
そこでは、隣人同士ですら、ということになってるワケで。ましてや、アメリカ人とモロッコ人なんて、という。
その、自分の言葉が通じないからっていう「途方に暮れる」感を描いてるワケじゃないでしょ? それが目的じゃないでしょ?



いや、それこそが描きたいテーマなのか? 実は。





あー、でも、そうか。
「アメリカ人の観光客」というのが、「バベルの塔」ってことなのかな。
世界すべてを自分たちの庭みたいに思っている、みたいな。それを「傲慢」だって言ってるのかも。
それなら、あの銃弾は、「神」の制裁なのかもしれないね。
トルコ人の村人たちに怯える、アメリカ人の観光客たちっていうのは、「神」によって言語をバラバラにされた人間たちの姿なのだ、と。


でもそれなら、メキシコ人たちの結婚式の幸福感の描写は、どういう風に解釈すればいいんだろう。
あの結婚式から砂漠の中を彷徨うところに落ちてしまうシークエンスっていうのは、無常というか不条理というか、そういう感じを作中で一番受けるシークエンスだと思うんだけど。


あれは、あの“幸福”な状態が、国境の検問でのやり取りで、つまりディスコミュニケーションで破壊される、ということなワケだけど。
“幸福”すらも、不条理に破壊してしまう、と。そういうこと?
でも、それじゃ、ガルシア・ベルナルが飲酒運転で、という意味合いがなくなってしまうしね。不条理感を強調するなら、あれは宴の次の日(酔いが醒めてから)でもよかったワケだから。



モロッコ人(これは多分、アフガニスタンの代替だと思うんですけどね)の生活と、日本やアメリカ人の生活を対比させてるのは、当然意味があるハズなんだけど、「神」の制裁は、モロッコ人に降りかかってもいるワケです。
長男が射殺され、恐らくあの家族は、崩壊してしまうでしょう。





「虚勢を張るな」とか、そういうメッセージってこと?
日本人の、タワーマンションに暮らす親子には、家族が“回復”されるけど、モロッコ人の家族からは、子どもが失われる。


アメリカ人の家族は、長距離国際電話で繋がりを確認することが出来るけど、モロッコ人の家族は、父親が町へ出かけていったら、そこは“父親不在”になってしまう。
アメリカ人の家族の子どもは砂漠で“奇跡的に”発見されるが、モロッコ人の親子は、山の斜面を走る姿を易々と発見され、射殺されてしまう。
メキシコ人の家政婦は、不法入国の罪を問われて国外退去させられ、国境で、歩道の敷石に呆然と座っているしかないが、アメリカ人の夫婦には、ヘリコプターが迎えに来る。(モロッコ人の通訳はカネを受け取らないし)

そういう不条理に、前二作では、そこにも救済みたいのがある、という風に描いてたと記憶してるんですよ。
その感じが、今回はない。


ない気がするんだよねぇ~。


どうなんだろうねぇ? そういうことじゃないのかねぇ?


う~ん。



まぁ、俺の解釈の仕方が間違ってるってことなら、それはそれで別にいいんですけどね。


う~ん。


とりあえず、アレだにゃ。
「アモーレス・ペロス」をもう一度観よう。そしたら、何か分かるかもしれない。



2008年11月11日火曜日

「善き人のためのソナタ」を観る

東ドイツを舞台にした「善き人のためのソナタ」を観る。

主人公は、東ドイツの悪名高き秘密警察(シュタージュ)の工作員。彼が、標的となった劇作家と女優が暮らす家を盗聴する、という。


それなりに面白かったんですが、なんかパリッとしない感じもあり、なんとも微妙な評価ですね。
ストーリーは、もの凄い単純化すると、超ダイナマイト・ボディの女優を巡って、恋人の劇作家と、“体制”の実力者である大臣と、それから主人公の工作員が、三つ巴で揉める、みたいな構造になってまして。

主人公の工作員は、ケヴィン・スペイシー似の顔と演技と存在感で、なんていうか、いわゆるギークな工作員を演じてまして。
その、ギークが「愛し合う2人」に憧れて、彼らのために自らを犠牲にして頑張る、という。
正直、ピアノ曲「ソナタ」は、あんまり重要なキーじゃありません。この邦題は、ちょっと失敗な感じ。まぁ、この邦題を付けたマーケティング的な理由は、分かるけど。


で、とにかく、主人公が憧れ、自分の人生を犠牲にしてまで守ろうとしたモノは、「2人の間にある愛」だったワケですね。
ここがミソで、「自由」じゃなかった、と。
劇作家は「この国は腐ってる」なんていうセリフを吐くんだけど、主人公は、国家や体制への恨み言は、最後まで語りません。実は最後まで、体制への忠誠心みたいなのは、揺るがなかったりするんですよねぇ。
制裁も、なんか受け入れちゃっているし。

主人公がここで、逃亡を図って捕まって、という展開になれば、壁崩壊のシークエンスなんかも、もっとドラマチックになったと思うし、銃殺ならそれはそれで、それなりの効果があっただろうし。
まぁ、そこは敢えて、ということなんでしょう。より静かなドラマを狙った、という。


個人的には、壁が崩れたあとの、秘密警察が保管していた監視の記録を閲覧するシークエンスが、とても興味深かったですね。
自分が盗聴されていた記録を、改めて読む、という。しかもそれは、主人公が“偽造”した記録だったワケで。
実は、自分の“記憶”を外部から入れ直すことで自分を取り戻す、という、温めているアイデアがあるんですよ。自分が誰だか分かんなくなって、外部に記録されていた“記憶”を、自分の人生として受け入れる、みたいな。
まぁ、それはさておき。


秘密警察にある自分の資料を閲覧できる、という、これは実際に行われていることなんですけど、とりあえずここの部分がとても重要なポイントなんだと思うんです。
実は作品のアイデア自体も、ここから出発してるんじゃないか、と。
ここにもっとフォーカスしても良かったんじゃないかなぁ、なんて。
いや、オスカー獲った作品に、生意気言っちゃいけませんね。



最後に、蛇足ですが。
実は、個人的に「ベルリンの壁」っていうのは、ちょっとだけ思い入れがありまして。
中学の文化祭の時に(確か二年生の時)、クラスの展示で、俺が出した「ベルリンの壁を教室の真ん中に作る」というアイデアが採用されたんですよ。
俺としては、浮かんだアイデアをぽろっと出しただけだったんですが、「それでいいよ」なんて言われながら、それがクラスの展示として採用されてしまって。
言い出しっぺってことで、なんか俺も、色々やらされたことを覚えてます。

で、なんと、「ベルリンの壁に穴を開けよう」ということになったんですよ。当時はまだ、壁は崩壊もなにも、ただ壁として東西分裂の象徴的な存在として、そこにあったんですが。
穴を開けて、東西を行き来できるようにしよう、という。
それから暫くして、マジで壁が崩れたワケです。ニュースであの映像を観た時、家族全員でびっくりしたことを覚えてます。


まぁ、それだけですけど。



東ドイツ。
でもホントに、つい2、30年前の話ですからねぇ。



ファシスト、社会主義、今だとなんだろう、イスラム国家とかかな?
そういう、「自由」を抑圧するモノと、人間は戦ってきたんだなぁ、と。一応、そんな感想もありますけどね。



2008年11月10日月曜日

「バットマン・ビギンズ」を観る

というワケで、「ダークナイト」の前作にあたる「ビギンズ」を観る。


う~ん。
まぁ、「ダークナイト」に向けての壮大なプロローグ、という感じなんでしょうかねぇ。

一応、この作品でバットマンの誕生秘話みたいのを語って、新しくシリーズを始める、ということなんでしょうけどね。
その誕生のストーリーがねぇ。

渡辺謙、なにもしてねぇし。

ポタラ宮ですか? みたいなトコだし。その辺は、マジでダサくて、いまいち。


ゴッサムシティの描写も、CGを多用して、モノレールとか、かなり架空の都市として作りこんでて。
「ダークナイト」では、このやり方での都市の描写はまったくなくて、それが成功してるので、後から観た俺としては、その辺もいまいち。
まぁ、モノレールという設定上、しょうがないのかもしれませんね。


そのモノレールが、20年間の間で荒廃してるっていう描写は、クールでしたけど。それは、社長代理の経営方針のせいだ、みたいな感じにもなってて。


とりあえず、誕生までが長いかなぁ。
「ビギンズ」っていうくらいだから、そこを描くのがこの作品なワケで、それはしょうがないっちゃしょうがないんだろうけど。
バットマンのリアリズムを再定義しよう、という。
面白いトコもあるんだけどねぇ。バットケイヴの設定とか(南北戦争時代から利用してた、とか)、好きですけど。後にバットシグナルになるサーチライトの磔も。


でもねぇ。
チベットで修行するっていって、忍者かよ、と。こちとら、忍者の国の日本人だぜ、なんて。アメリカ人は好きかもしれないけどねぇ。
「悪の組織」で育てられて脱走する、という「仮面ライダー」スタイルも、個人的にはダサいし。



あ、スケアクロウという、元は精神科医だったキャラクターを演じた俳優さんは、良かった。


で、やっぱりリーアム・ニーソンは、いいよね。
彼が出ると、ギュッと引き締まる感じがします。


彼の存在感もあるんだろうけど、リーアム・ニーソンが再登場したあとは、ストーリーがグッと良くなる。
それは、ゴッサム・シティ=ニューヨークってことで、その都市を狙うテロリストとして現れるからなんですね。
それはつまり、「9.11」のメタファーというか、アメリカが世界各地で犯している不正義という罪に対する反撃、ということを語らせて。
バットマンとの戦いが「正義v.s.正義」なのだ、ということを、ちゃんと描くワケです。

これが「ダークナイト」になると、敵は、内側というか、シティの(外部からのテロリストではなく)犯罪者という設定になって、同時に、人間の心の闇みたいのとの闘いになるワケですね。
マフィアの“組織”もそうだし、ジョーカーもそうだし、トゥーフェイスもそう。


「ビギンズ」では、敵は外にいる、と。それを迎え撃つバットマン。
この語り口は、凄い良いと思いました。あんまり徹底されてないのもあって、伝わらない人もいると思うんだけど。
でも、ウェインタワーはモロにロックフェラーセンターなデザインだしね。
モノレールは、「ER」にも出てくる、シカゴの高架を走る電車みたいだけど。
(多分、ゴッサム・シティの描写は、ニューヨークとシカゴを両方合わせた感じで設定されてますよね)



しかし、この「ビギンズ」から「ダークナイト」への飛躍っていうのは、かなり凄い。
「ダークナイト」はホントに傑作だと思うんだけど、「ビギンズ」は、正直、そうでもないから。シリアスな語り口で語るアクション作品、という感じかな。

でも、この飛躍っぷりを考えると、「ダークナイト」は、到達点じゃなくって、絶対に通過点にすることが出来るような気もする。
もっと凄いのが作れちゃうんじゃないの?
なんか、「次回作には躊躇している」みたいなコメントが出てましたけど。そんなことないでしょう。もっと凄い作品が出てきますよ。きっと。


まだロビンも登場してないし、キャットウーマンだってそうだしねぇ。
あとは普通に、スケアクロウをもっと観たい。


そう考えると、「ダークナイト」の次作、超期待っスね。うん。


2008年11月8日土曜日

師匠と一門

NHKの、深夜の再放送で、桂米朝師匠を追ったドキュメンタリーをやってて、途中から観たんですが、惹きこまれちゃいました。とても面白かったです。



個人的には、落語をナマで観た事はないんですが、まぁ、興味はある、というか。
その、人間関係というか、彼らが生きている空間というか。

ウィキペディアの一連の項目が、とても面白いんで、興味がある方は、どうぞ。(>>>こちら


ご本人の人生そのものもとてもドラマチックなんですが、それに加えて、一門が凄い。

ドキュメンタリーの中で、米朝師匠が「弟子を超えたライバル」と言っていた枝雀。
枝雀さんは、「笑い」を極めようとしたあげく、鬱病を患い、自殺してしまいます。

そして米朝さんが「同志」と言っていた吉朝。
吉朝さんは、ガンで亡くなります。師匠米朝さんとの落語会の12日後に。


それからもちろん、ざこばさん。南光さん。

実子の、小米朝。息子さんは、師匠(かつ実の父親)の師匠だった米團冶を襲名しました。

まぁ、俺が知ってるのは、そのくらいまでですけど。(孫弟子、曾孫弟子も、もちろん、沢山います)



で、一門を率いて、上方の落語そのものを「復興」した、というストーリー。
弟子を大勢育て上げ、「これで安心」みたいなことを言って。「ここから落語が滅びるなら、それは、落語という芸の運命だ」みたいな。
芸の「復興」っていうのは、これは生半可なことじゃ出来ませんからね。
まず、無形ですから。それから、一つの“産業”として成立させる、ということでも。



弟子を従えて、その弟子とのやり取りを聴かせる「よもやま噺」という会がドキュメンタリーでも紹介されてたんですが、その受け答えが、また面白い。
弟子が悶絶するような、粋で洒落てて、とにかく笑っちゃう感じ。




落語の一門といえば、立川談志率いる立川流とか、まぁ分かりやすい例でいうと(落語じゃないんだけど)ビートたけしの下のたけし軍団とか、破天荒というか、そういう、いかにも「厳しさ」みたいなイメージを持っちゃってたんだけど、米朝さんは、そんな雰囲気でもなく。


うん。



大きな師匠と、それを支える一門の弟子たち。
ドラマチックだと思いました。

2008年11月7日金曜日

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る

ウォン・カーウァイ監督、ノラ・ジョーンズ主演の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を観る。


いやぁ、ウォン・カーウァイ・イズ・バック!!!という感じでしたねぇ。あの王家衛が帰ってきた! という感じ。

王家衛監督初の英語作品というで、まぁ、誤解を恐れずに言えば、「恋する惑星」のあの感触が戻ってきた、という感じ。個人的には。
かなり低予算で作られてるっぽいし。


しかし、いい映画だ。

話としては、なんてことのないストーリーなんだけどね。

こんなシナリオを書いてみたいよね。ホントに。


切れ味のいい短編小説を読んだ後、みたいな感じ。余韻をずっと楽しむ、みたいな。
ストーリー自体が、主人公のノラが2つのエピソードに巻き込まれ型で語られる、みたいな形になってて、ノラ自身のストーリーと併せて、全部で三つのパートに分かれてて。
まぁ、全部いいですよ。ストーリーは。


あとは、ショットがいちいち、クール。
一番好きだったのは、最初のシークエンスで、ノラが“遅刻”した夜の、ジュード・ロウがノラを待ってるトコ。あれは一応監視カメラの映像ってことになってるんだけど。カウンターの中に座って、そわそわしながら入り口を見てる、というヤツ。


まぁ、「恋する惑星」に戻った、ということで、ノラがフェイ・ウォンなワケだけど、警官のトニー・レオンとフェイ・ウォンが出会ったのも「お店」だったし。
それから、次のシークエンスでは、ノラと「警官」のエピソードが出てくるしね。

個人的には、ノラの唇ががっちりフィーチャーされてて、嬉しかったです。
王家衛っていうのは、かなりフェティッシュに女性を撮る人で、作品云々とは別に、その辺がツボだったりするので。今回のノラの唇のショットも、最高ですね。


しかし、ホントにスタイリッシュに撮る人だよなぁ。
ちょっと、呆れてしまう程、というぐらい。


ノラもいい。
ふんわりした存在感で。
繊細なんだけどエキセントリックじゃなくって、カワイイんだけど美しすぎるって感じじゃなくって、清楚って感じもなくって(鼻血も似合う)、地に足を付けた普通の女の子なんだけど、かといって普通過ぎる感じでもなくって。
自意識を上手く剥ぎ取った王家衛の演出もあるんでしょうけど。でも、ノラというミュージシャンが最初から持ってた資質なのかもしれないな。
自分をさらけ出すことに慣れているのかもしれないし、逆に、そうやってさらけ出すことの意味とか価値とか効果を知ってる、とか。
まぁ、装飾を削ぎ落としたスタイルのミュージシャンですからね。
いや、素晴らしいです。あと、普通に声が素敵なんですよねぇ。良かったです。



うん。ナレーションも、王家衛のスタイルですから。


う~ん。感想っていっても、こんなモンかなぁ。
あんまりグダグダ語らせない、というのも、王家衛の作品の性格の一つなのかもしれませんね。

ホントに、いい作品でした。


次作は、どんな方向になるんでしょうかね。


2008年11月6日木曜日

「バイオハザード」を観る

ミラ・ジョボビッチ主演の「バイオハザード」を観る。
この間読んだ、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」で紹介されていたので、勉強がてら、観てみました。


ちなみに、大塚英志さんの本では、こんな感じ。

言うまでもなく原作はコンピューターゲームであり、映画としての水準は映画史に残るか否かといったものではありません。しかし、ゲームが原作であるが故に、かなりシステマティックにストーリー開発が行われたのではないかと推察されます。
分析してみる限り、キャンベル/ホグラーの(物語論)かなり身も蓋もない援用のように思え、メッセージをすっぽりと欠いた「物語」だけがそこにある印象を持ちます。
もっともぼくは、中途半端に何かポリティカルなメッセージを「物語」に背負わせるよりは、構造しかない空洞の物語の方に好意をもちます。
映画『バイオハザード』はその意味で「物語の構造」にのみ忠実な作品なのです。


というワケで、まぁ、「物語の構造」論的に言えば、という作品でした。
「行って帰る」「賢者・贈与者」「使者・依頼者」「敵対者」「偽の主人公」「主人公のシャドウ」などなど。

勉強になるな、ということで。




で。作品自体の感想も、一応。
まぁ、ミラ・ジョボビッチが、とにかくキレイですよね。ホントに。
それに尽きる、という感じで。美しいっス。
脚キレイだし。

演技はイモみたいに感じちゃうけど。でも、そんなこと、この作品に関しては関係ないワケで。
ミラが闘いまくってれば、それでいいんですからね。


あと、音楽が良かった。効果音も含めて、すごい効果的で。
原作のゲームは、俺は全く触れたことがないんで、分からないんだけど、ひょっとしたら、関係してるのかもしれませんね。

音楽は、トレンド的に言えば、全然最先端じゃなくって、良くないんだけど、演出としては、もの凄い効果的なサウンドでしたね。
これはグッド。良かったです。


ということで、まぁ、続編があるんですが、別にって感じスかね。「ストーリーメーカー」と併せてどうぞ、という感じです。


2008年11月5日水曜日

富野由悠季監督が吠える

「コンテンツ」を扱うイベントでの、富野さんの講演録がネットで紹介されてまして。
ミクシィやはてなでも取り上げられていたので、チェック済みの方もいると思いますが。
ここでも、抜き書きの形でご紹介。



 デジタルやインターネットが決定的に有利なのは、マンツーマンの作業が可能だけれど、そのスタッフが目の前にいる必要がないという部分
。それ以上の機能は基本的に認めたくないと思っているぐらいです。便利だから全部利用するのはいかがかと思うが。技術は全否定しているわけではないということも了解していただきたい。


 チームワークやスタジオワークは決定的に重要です
。こういう所に集まって仕事しようとしている人たちはほとんど我が強いんです。隣の人の言うことは絶対聞きたくないという人がほとんど。だからダメなんです。お前程度の技能や能力でメジャーになれると思うな、なんです。

 宮崎駿は1人だったらオスカーなんか絶対取れませんよ。個人的に知っているから言えるんですが。彼は鈴木敏夫と組んだからオスカーが取れた。組んだ瞬間僕は「絶対半年後に別れる。こんな違うのにうまくいくわけがない」と思いました。知ってる人はみんなそう思ったんです。

 それがこういう結果になったということは、あの2人が半分は自分を殺して半分は相手の話を聞いたんです。みなさん方も、お前ら1人ずつじゃろくなもの作れないんだから最低2人、できれば3人か4人。スタジオワークをやる気分になってごらん。そしたらあなたの能力は倍、3倍になるはずだから。オスカー取りに行けるよ、という見本をスタジオジブリがやってくれているんです。

 当事者はそういう言い方しないから脇で僕がこう言うしかない。宮崎さんが公衆の面前で「鈴木がいてくれて助かったんだよね」と本人は絶対言いません。どう考えてもあの人、1人では何もできなかったんです。「ルパン三世」レベルでおしまいだったかもしれない。本人に言ってもいいです、知り合いだから。

 そういう時期から知っているから、そこでの人の関係性も分かってますから。我の強い人間のタチの悪さも知っています。みなさんもそうですよ。隣の人に手を焼いているとか、「あいつがいなけりゃもっと自由にできる」と思ってる人はいっぱいいるだろうが、若気の至りでそう思ってるだけだから。

一番目指さなくちゃいけないのは、34~35までに、40になってもいいと思うけど、パートナーを見つけるべきだということです。もっと重要なのは、その人とキャッチボールができるフィールドを手に入れていくこと

 ビジネスを大きくしたいなら、そこで必要なのはチームワーク。悔しいけど相手の技量を認めるということです。僕は例えば安彦君の技量は全部認めます。あの人の人格は全部認めません。大河原さんの技量は認めません。大河原タッチは大嫌いです。でもそれは絵のタッチのこと、デザインはまた別です。「惚れたら全部正義」と思うのがいけない。何を取り入れて何を捨てるか、ということをしなくてはならないんです。

 僕の場合はサンライズという制作者集団があって、その上にフリーの人間が乗っかって1つの作品を作るという構造があったから良かったと思います。1人の人間の365日の生活費を保障するのはとても大変なことです。ですからそういう関係でない、スタジオワークを完成させていくということはとても大事なことです。



特に最後の部分がポイントですね。フリーの人間が、サンライズという組織の上に乗っかって作品を作ったから、良かった、という。
スタジオという技能集団がいて、富野由悠季という頭脳が、その技能集団を手足として使って、自分の頭の中にあるアイデアを具現化していく、と。
その時に、スタジオが求める「商業性」と、頭脳であるクリエイターの「作家性」を、同時に成立させる、という感じでしょうか。

映画でも、スタジオ・システムとか、プログラム・ピクチャーというのがあって、そういう環境から名作が生まれる時っていうのは、「頭脳」と「技能集団」が同じように機能してる時だと思うんですよね。

その、スタジオワークという意味で、チームワークが大事なのだ、と。
コミュニケーション能力が高くない人が多いですからね。とにかく。それは、世代的な特徴としてもそうなんだろうし、この分野にいる人の特徴ということでも、そうだし。


それから、富野さんのインターネット評も、面白い。「ツール」としてのみ、評価する、という。
うん。
究極的には、ウェブっていうのは、そういうものだからね。
だから、本質突いてますよ。富野さんは。


2008年10月31日金曜日

「ダークナイト」を観る

銀座シネパトスへ出かけていって、「ダークナイト」を観る。


いやぁ、傑作。まぁ、そういう風に言われてましたけどね。
その通り。素晴らしい作品でした。

実は、前作の「ビギンズ」を観てなくって、例えばバット・モービルが登場したときにはホントにびっくり。
超クール!
この“新型”の造形って、前作からなんですってね。

個人的に、東京・八王子出身なもんで、ちょうど中学時代、バットマンビルというのが出来て、そこに飾ってあったバット・モービルの実物大のレプリカを目にしていた人間としては、“新型”の登場には二重の驚きでした。
うん。そういう意味では、前作を観てなかったのが、かえってよかったのかも。驚きが大きい、という意味では。


で、もうひとつ正直に白状すると、「コイン≒トゥーフェイス」ということも忘れてたんですよ。
今回は、マジでストーリーにハマり過ぎて、途中までマジでジョーカーだけだと思ってました。えぇ。


で、その、トゥーフェイスも含めた、タイトル「ダークナイト」の言葉のダブルミーニングが素晴らしいですよね。


さて。ホントに圧倒されちゃって、色々ありすぎちゃって書けないぐらいの感じなんですが、ひとつづつ。
とりあえず、ストーリーのスピード感が凄いですね。
これは、受け手の側が持っている情報量の多さ(バットマンについて知らない人はいませんから)を最大限に利用したストーリーの作り方をしてる、というのが大きいんですね。
まぁ、俺みたいに、うっかりコイントスについての“裏”を知らないヤツもいたりするんですが。

例えば、バットマンというキャラクター自体を説明しないといけないとすると、表の顔はブルース・ウェインで、超カネ持ちで、両親が殺されて、とか、スーパーマンとは違って超能力は無い、とか、そういうことを描かないといけないんですが、今作では、そういうのは一切なし。(当然ですけど)

で、大事なのは、他の部分でも、そういう、いわゆるありふれたのギミックを徹底的に使うことで、「余計な説明」を省いてるんです。
“組織”という言葉、イタリアンマフィア、倉庫で行われているマフィアの会議、マフィアと同じテーブルに座っている黒人のギャング。チャイニーズマフィアと、その表の顔である中国系企業。
警察の腐敗、腐敗の告発、それによって受ける脅迫。
マネーロンダリングという言葉や、投資ファンドという言葉、などなど。
そういう細かい設定の背景を、いちいち説明する事はまったくしない。全て、自明のこととしていく、と。
なおかつ、その量がハンパないワケですね。

コミックという原作からの情報と、それ以外の部分の、いわゆる現実の世界からの情報と。
例えば、冒頭の銀行強盗で、あのマスクが映っただけで、観る側は「あ、ジョーカーだ」と分かるワケです。一発で。
バットマンがショットガンをぶっ放したら、それはニセモノだ、ということも分かるし。
中国人の企業家が出てくるのも、ごくごく自然に感じれるし、登場する弁護士が、その強欲さゆえにバットマンを窮地に追い込む、とか、そういうのも、現実社会の情報を受け手が既に持っていて、それを作り手側がコントロールしてるワケです。
イタリアンマフィアというのは、これはちょっとアレなんですけど、「他のファンタジー」からの流用なんですね。つまり、現実の世界の情報とはちょっと違う。だけど、それも使う、と。

まぁ、東浩紀の言い方を流用すれば、「データベース消費」という言葉になるんですが。
受け手が共通して持っているデータベースを“参照”しながら、物語を語る、という。



ということで、その情報量で、ストーリーをブーストさせる、と。
これは完全なカン違いだったんですが、個人的には、トゥーフェイスの誕生は次回作への布石なのか、とか思っちゃってて。それくらい、お腹いっぱいだった、と。
もちろん、そんなことはなかったんですけどね。

逆の言い方をすれば、同じ時間の中で、時間軸に沿ってストーリーを進ませるだけでなく、そのストーリーに付随する情報をパンパンに膨らませて、受け手に渡す、と。
受け手側は、ストーリーを追いながら、その裏側にあると認識することが出来る情報をも、同時に咀嚼してるワケです。


ストーリーの分量を増やそうと思ったら、必然的にテンポを上げなくてはいけなくって、つまり、受け手にしっかり説明する時間がなくなるワケです。
だけど、それを逆にしなければ、テンポはあがって、必然的に、内容的に沢山のことを語ることが出来る、と。
トゥーフェイス誕生までで、既に一本分の映画を観た、ぐらいの感じになってる、と。





で。
とにかく、シナリオが素晴らしいと思うんですよ。
ファンタジーとリアル、という2つのフェーズがある、と。で、まぁ、以前のバットマンシリーズ(ティム・バートンのとか、ですね)というのは、ファンタジーに振り切ってたワケです。
当然、コミックが原作ですし、舞台も架空の都市だし、別にリアルである必要は全然ないんで、別にそれでいいワケですけど。
スパイダーマンも、同じ。
で、例えばロード・オブ・ザ・リングでは、完全なファンタジーなんだけど、そこにいかにリアリズムを注入するか、ということで色んなことをしてるワケですね。CGやらなんやらで。スターウォーズも同じ。
そうすることで、ファンタジーが、ファンタジーとしてより強化されるワケです。リアリズムを注入することで。
ポイントは、ここで注入されるのが「リアリズム」である、ということですね。
猿の惑星しかり、ブレードランナーしかり。


この「ダークナイト」を傑作にしてるのは、ファンタジーに注入されているのが、正真正銘の「リアル」である、というトコにあるんじゃないか、と。
もちろん、バットマンというキャラクター自体に、最初からそういう要素が含まれていた、ということもあるし。
それから、最初に挙げた、情報量とも関係してて。つまり、コミックからの情報というファンタジーと、現実社会というリアルに由来する情報。その両方をこのボリュームで見せられると、受け手側は、もう大変ですよ。
没入です。作品に。


その、バットマンではなく、ジョーカーやトゥーフェイスに注目すると、彼らは、もうホントに完全な「リアルな世界」の住人である、という風に描かれているワケです。
レクター博士が空を飛ばないように、ジョーカーも空を飛べないし、ケヴィン・スペイシーのジョン・ドゥやカイザー・ソゼが空を飛ばないように、トゥーフェイスも空を飛べない、と。

彼らはみな、人間の、悪意や強欲や自己愛や恐怖、あるいは人間社会の腐敗や不信や絶望から産み出される存在なワケで。
その、“悪”の背景をどう描くか。
ファンタジーにリアリティを肉付けする、とか、リアルに物語(という名前の虚構)を構築する、とか、そういう方法論とはちょっと違って、既にあるファンタジーと、既にある(当然ですけど)リアルの、両方に立脚してしまう、という。
分かり難くなってますね。

当然、バットマンなんて、現実には絶対に存在し得ないキャラクターだし、世界なんだけど、リアルに、その、バットマンが生きているファンタジーを、引き寄せる、という感じ。



いや、作品の本質から、ズレてますね。



とりあえず、役者陣は素晴らしい。ヒース・レジャーはもちろん、ゴードン警部のゲイリー・オールドマンも、素晴らしいですね。もちろん、検事(そして、トゥーフェイス)役の熱演も。
あと、受刑者役の、あの人。

あの、フェリーの中のシーンはホントに最高だと思ってて、あの群像劇だけでも、どんだけカネかかってんだ、と。カネと、労力。
あのシークエンスを、あれだけ説得力のある演技と画で作る、という、製作陣のエネルギーを感じちゃいますよね。


“アリバイ”作りのためのバケーション、なんていうのも、エスプリ効かせてますって感じで、上手だし。
「香港」と「Phone call」のダシャレは、サブかったけど。


あと、建築現場を“ソナー”で透視するショットの、半透明みたいなCGは、カッコよかった。
あのシーンのスピード感っていうのは、半透明で見せるというのが、結構いい方向に影響してるんじゃないかな。

“エンロン”みたいな、盗聴システムの描写もクール。
あれはまぁ、CIAとかの、対テロ捜査で市民を盗聴していることの、ワリと直球なメタファーにもなってるんだけどね。


ブルースとアルフレッドしかでてこない、あの“ファクトリー”の造形もクールだったしねぇ。
そういう意味では、美術はホントに良かった。マシンの造形もそうだし、CGもそうだし、トゥーフェイスの顔面もそうだし。(ベッドのシーツに血が滴ってるのとか、ヤバイでしょ)


あと、音楽が良かった。かなりシンプルな、というか、古典的な使い方だったと思うんだけど、それがすごい効果的で。
音楽については、DVDでもう一度観るとかした時に、ちゃんとチェックしたいですね。
勉強になるハズ。
あ、あと、クラブのシーンで、かかってるのが変なトランスとかハウスじゃない、というトコも好印象です。



う~ん。
自分で書いてるクセに収拾つかなくなってますね。


この辺でやめておきます。

何言ってるか分かんなくなってますけど、まぁ、いいです。
とにかく、素晴らしい作品だった、と。そういうことですな。


「ダークナイト」傑作です。



2008年10月28日火曜日

「悪霊喰」を観るものの

月曜映画で、ヒース・レジャー主演の「悪霊喰」を観る、ものの、途中で寝ちゃいました・・・。


まぁ、つまらなかったから、と言えばそうなんですが。

作品の内容は、キリスト教の「赦し」とか、異端とか、まぁ、なんとなくそういう感じのモノ。ホラーテイストですが、タイトルからは、もっと悪霊がグイグイ来るかと思ってたんですが、そういう感じではなかったですね。

作品のテーマとか、背景とかは、別に嫌いじゃないんですけどねぇ。破戒僧とかも。


原題は「The Order」。「ジ・オーダー」ということで、意味はちょっとアレなんですが、「注文」とか、そういう意味なハズで。
「告解の注文」とか、そういう意味でしょうか。

主人公が追いかける敵は、依頼者の「罪」を赦してやる、ということを生業としているんですね。
なので、その「依頼」のことなんスかねぇ。まぁ、なにせ、最後まで見てないんで、アレなんですけど。


それとも、うっすら記憶に残ってる映像をラストシーンだと想像すると、その敵役が、主人公に「依頼」していた、ということを指すのかもしれません。確か、後を継げ、みたいなことを言っていたので。


監督さんは、「LAコンフィデンシャル」や「ミスティック・リバー」といった名作の脚本を書いた人。
両作とも、ミステリーの形式を取りながら、謎を解く・追う人間の方の暗闇を描く、みたいな共通点があったりして。
その意味では、この作品にも、ちゃんとその構造は現れてますね。


映像としては、とにかくひたすら暗いんですが、アングルがちょっと特徴的だったかもしれません。あおり、というか、下から見上げる画が多い、と。

それから、「罪」を、CGで具現化した、実体化させて表現してるんですが、それが、マトリックスのあの蛸みたいなマシーンとクリソツでした。何か共通のイメージがあるんでしょうか。



というワケで、寝てしまってスイマセンでした。


明日は、ヒース・レジャーの「ダークナイト」を観に行くつもりです。楽しみ。


2008年10月24日金曜日

「ペイルライダー」を観る

午後のロードショーで、クリント・イーストウッド監督・主演の(ちなみに、製作も)西部劇「ペイルライダー」を観る。

正直、“ペイルライダー”って言葉の意味が分かりません。西部劇でライダーっていうぐらいだから、さすがにバイクじゃなくって、馬に乗ってる人のことだは思うんですが。ペイルって、なんて意味なんでしょうか。
騎士とか、そんな意味なのかなぁ。

今週の午後のロードショーは、まぁ、今週に限らず、テレビ東京はイーストウッド作品のラインナップが結構凄くて、この辺の作品をワリと執拗に放送してくれるんですが、今週は、西部劇。
で、この作品は、イーストウッド本人が監督もして、主演もしてます。

作中の、「中年の親父」と「少女」のプラトニックな愛、というのは、後々の傑作「ミリオンダラー・ベイビー」にも出てくるモチーフですよね。「初老」と「いい歳した女」に変化してますけど。



さて。二十年前に作られたこの作品ですが、いま観ると、ツッコミどころがもの凄い沢山ある、なにげに問題作かも、みたいな感じです。
まず、舞台は、当然西部劇ですから、アメリカの西部なんですけど、ゴールドラッシュ期の、金鉱堀たちのストーリーなんですね。で、まぁ、無法地帯である、と。暴力が幅を効かせている世界。

で。
舞台となる小さな町とその一体を牛耳っている男、というのが登場するんですね。大規模な装置を使って、谷を丸ごと切り崩して金を採掘している、という。
この男が、近くの渓谷で、細々と個人営業で金を掘っている男たちを追い出そうとしている、という話なワケです。
これは、まぁざっくりと言ってしまうと、大企業と個人の対比としてみることが出来るワケですね。もっと解釈を広げると、大企業・多国籍企業と、インディペンデントな個人。

で、「大企業」側は、カネで“力の行使”をしてくれるという、悪徳保安官を招聘するんです。カネを払えば、何でもやってくれる、という。
保安官は当然、「法の執行官」ですから。

つまり、「法の執行」という形の暴力が、私企業の営利の為に行使される、という形になってるんですね。大企業の意図に沿って、「法の執行官」が、個人に対して暴力を振るう、という。
これはモロに、現代の社会のメタファーとして成立しているだろう、と。大企業と行政機関が一体化して、個人を押し潰す、というのは、改めて言う必要がないくらいなアレですから。
つまり、「マネー」と「法が認めた暴力」ですね。

で、イーストウッド演じる主人公は、“個人”の側に立つヒーローとして登場するワケですが、彼は、ちょっと複雑で、最初はアウトロー的な、ガンマン的な顔で現れて、実は「牧師」でした、という形で正体を明かすんですね。
で、最後は当然、彼が保安官を倒すワケですが。
ここで、「信仰」と「暴力」が一致している、ということが示されている、と。

別に、ストーリー上、主人公が牧師である必要は、実はあんまりなかったりするんですよ。
ダークヒーロー然とした主人公が、「実は善の人であった」という構造は、例えば「子連れ狼」でもそうなんですけど、「子連れ狼」では、「子供を連れている」という要素が、「実は~」の部分を示しているんですね。
「親子愛に満ちた人物なのだ」ということですから。
例えば、アウトローみたいな、一見強面の男が、子供が転んだら優しく抱え起こしてやる、とか、そんな感じでもいいワケです。
暴力的な人間っぽいけど、実は本が好きで、インテリで、みたいな。画を描くのが上手い、とかね。ギターを弾く、とか。
ストーリー内で、別に宗教的な何かをするワケじゃないんですよ。主人公が。ただ、カラーをして、飯を喰うときに家族でお祈りをするってぐらいで。

つまり、これはモロに、「信仰」と「暴力」が共存している、ということが言いたいんだろう、と。あくまで俺の解釈ですけど。


で。
最後に、保安官と牧師が激突するワケですけど、ここでは、「マネー+法律」に支えられた暴力と、「信仰」に支えられた暴力との対決なワケですね。


で(“で”ばっかりですけど)。
ここで大事なのは、主人公が寄り添う側も、規模は違えど、同じような金鉱掘りたちである、という部分だと思うんです。

ここで、彼らが、例えば林を切り開いて農場を作ろうとしている開拓民だったり、それこそ宗教的な自給自足のコミューンだったり、ということであれば、もうちょっと美しいストーリーの構図になると思うんですが、結局、個人個人で慎ましくやってる、と言っても、金鉱掘りですから、結局は「山師」なワケですよ。
一攫千金ですから。目指すところは。

事実、ストーリー上でも、あまり美しく描かれてはいないんですね。彼らは。
隣人が小さな金塊を見つけたら、嫉妬するし、色めきたつし、で。
「大企業」に相対させて置かれているワリに、あんまり効果的ではない。

彼らも、基本的な動機としているのは、「マネー」なワケです。「欲望」なワケですよ。
巨大な金塊を掘り当てて、有頂天になって酒を浴びるほど飲んで、結果、調子に乗っちゃって、権力者の怒りに触れて撃ち殺されちゃうし、なおかつそこでは、父親に対して「救いに行かない」という息子の描写があるんです。「せっかくこっちは楽しんでるのに」みたいなことを息子が言うんですね。
つまり、彼らも、なんだかんだで「欲望」がその支えになってる。



悪徳保安官の側は、「マネー+法律」に支えられた暴力。
主人公は、「マネー+信仰」に支えられた暴力。

いや、結構地獄絵図ですよね。こう書くと。



一応、主人公は、牧師の象徴であるカラーを外して、その代わりに、暴力の行使手段である、拳銃とガンベルトを身につけるんですね。
つまり、「信仰」と「暴力」を取り替えるんです。
ただ、ここで大事なのは、取替え可能である、ということと、もう一つ、決して捨て去る、という描写じゃないことにあって。
貸し金庫の中に拳銃があるんですけど、今度は、カラーを、その中にしまうんです。
つまり、再びカラーを身にまとう、つまり、牧師に戻る時があるのだ、ということが示唆されている、と。
「信仰」を捨ててガンマンに戻るのだ、ということであれば、カラーを投げ捨てる、ぐらいの描写があっていいハズですから。
つまり、決して「信仰」を捨て去ってるワケじゃなく、便宜的に脱ぎ捨てているだけであって、いずれまた、その貸し金庫に戻ってくれば、牧師の姿に戻ることが出来る、という。




そう考えると、ちょっと飛躍しますけど、つまり、主人公の抱えるニヒリズムというのは、なんていうか、もの凄い根が深いモノなんだ、と。
最後、主人公は、誰にも別れの挨拶をすることなく、報酬を得るワケでもなく、少女の愛に応えることもなく、ただ黙って去っていくんです。


しかも、もっとややこしいことに、主人公と悪徳保安官との間には、かつて闘いがあったということが示唆されていて、つまり、個人的な復讐、みたいなが動機にもなってる、という描き方がされてるんですね。
「マネー+信仰+私恨」が支えているのが、主人公の暴力なのだ、と。


全然美しくないですよ、これは。
だからこその、ニヒリズム、ということなんでしょうけど。
だからこそ、主人公は、全てに対してニヒリズム的な立場を崩さない、と。それは、自分を取り巻く世界全てに対する絶望、ということなんでしょうか。

保安官と牛耳ってた男の死、という結果だけを残して、結局何も肯定しないまま去っていく主人公、というのは、つまり、信仰も、暴力も、私恨も、愛も、なにも得ないまま去っていく、ということであろう、と。

繰り返しになりますけど、あくまで俺の解釈ですけどね。


長々と書いてしまいましたけど。




あ、映像は、もの凄いきれいでした。色味も、いかにも80年代という感じは全くしないて、シャープな映像だったし。
もちろん、風景の良さもあって、山をバックに立つイーストウッド、なんて、むしろ狙い過ぎな感じ。
セルジオ・レオーネみたいな切れ味はないんだけど、むしろ、演技をしっかり見せる、という、イーストウッド節みたいな、ゆったりとしたカット割っていうのがちゃんとあって。
もっと評価されてもいいんじゃないかなぁ、なんて。

低予算だからでしょうかね。


あ、それから、クリス・ペンが出てます。雰囲気いいですよね。この人は。
ペン兄弟とは、ずっと繋がりがあったんですね。



というワケで、個人的にはツッコミどころが沢山ある作品でした。
巨匠に向かって、生意気ばっか言っちゃって、スイマセンでした。


2008年10月20日月曜日

嗚呼、此処ニハ浪漫ガ或ル

新聞に載ってた、「男はつらいよ」の特集記事が面白かったので、ご紹介。
最後の(そして、恐らくは最愛の)マドンナ、リリーを演じた浅丘ルリ子さんのご登場。

浅丘が「寅次郎忘れな草」でさすらいの歌手リリーを初めて演じたのは73年、33歳のときだ。それまでマドンナといえば良家のお嬢さんだったり、貞淑な婦人だったり。
監督の山田洋次から最初に示されたのも、北海道の牧場で働く女性という役だった。浅丘は自分の細い手を見せる。「わたし、こんな手をしているんですよ」
宝石の似合うその手を山田はじっと見た。しばらくして浅丘に台本が届く。「場末のキャバレーを渡り歩く歌手」に変わっていた。
(リリーのセリフ)「ね、私たちみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ・・・あぶくみたいなもんだね」

浅丘の胸のなかで、渥美は寅さんと分かちがたく生きている。いまも渥美を語るとき、つい「寅さん」といってしまう。
男くさくて粋で不良っぽくて、照れ屋で優しくて可愛くて、そしていつも笑わせてくれた。「私は愛していました。ほかのどのマドンナよりも、愛していました」
リリーがいた(奄美の)青い屋根の民家を、南の島の人々は「リリーの家」と呼ぶ。いま住む人はないが、近所の人が雑草をむしり、掃除する。いつしか、こんな伝説も生まれた。
――テキヤ稼業を引退した寅さんは、この島でいまもリリーと暮らしている。海辺で釣りをする島の子たちに旅の昔話を聞かせている、と。


いい話ですなぁ。



なんつーか、「アリとキリギリス」の話じゃないけど、寅さんはキリギリスなんだよね。
で、歴代のマドンナはみな、アリだったんですよ。キリギリスとアリの恋物語。

そして、葛飾柴又の団子屋さんたちもみんな、アリで。
満男は多分、キリギリスだけど。

寅さんっていうのは、アリに憧れ続けて、アリに恋し続けたキリギリスだったのだ、と。
フラれ続けちゃったワケだけどね。


でも、リリーもキリギリスだったんだよねぇ。


リリーもやっぱり、多分、ずっと、アリに憧れてて、だから寅さんとも何回もすれ違いになっちゃってて。


まぁ、最後に、リリーとの物語で終わって、良かったよね。
今はリリーと暮らしてるんだ、という「物語」を、今も紡ぐことが出来るワケだから。

それは、とても幸福な終わり方なワケで。


「男はつらいよ」、好きですか?
俺は好きっス。




2008年10月19日日曜日

「レイクサイド マーダーケース」を観る

なぜか、土曜の午後というワケの分からない時間に放送されていた、青山真治監督の「レイクサイド マーダーケース」を観る。

とりあえず言っておきたいのは、このタイトルが超クールってトコですよね。原作は「レイクサイド」という小説(著者は東野圭吾)なんですが。
ちなみに、訳したら「湖畔の殺人事件」ってことで、とたんに火曜サスペンスになっちゃうんですが。(確かにキャストもそれっぽいけど)。
でも、「レイクサイド マーダーケース」ですからね。語感がクール。


もう一つ気になったのは、ワリと観る側を選ぶな、ということ。それは、いわゆるリテラシーの有無ってことだけじゃなくって、「世代」じゃないかなぁ、と。

これは、かなり極私的な、ちょっと正直なアレの吐露なんですが、この、青山さんたちの世代の作る映画って、嫌いだったんです。10年くらい前の話なんですけど。
(あ、今は違いますよ)
世代論でっていうのは、俺が勝手にそう一括りにしてるだけなんですけど。
「なんで、こんな小さな物語ばっかりなんだよ」と。映画館に行って、そこにある新作のチラシを全部持って帰って、作品の紹介を読んで、いつもそう思ってて。
まぁ、今なら、その意図や価値や意味や、そうならざるを得ない理由だったりとか、諸々が理解出来るんですが。当時は、そうだったんです。
「友だちが出来ないとか、先が見えないとか、そんな話ばっかりじゃねぇかよ」と、まぁ、そんな風に思ってたんですね。
なおかつ、「そこから先に進んでない」気がしてたんです。ステップアップしていってない気が。別に、監督本人が望めば、同じ場所に留まり続けてもいいワケだし、もちろん、実際は前進・深化してて、それに俺が気付いてないだけ、ということだったんでしょうが、(あくまで)当時は「そこを退いてくれないと、次の人間が出て来れないんじゃないのか?」という感じで。
そんなことをついついポロッと言ってしまったばっかりに、橋口亮輔監督のファンの人とちょっとした口論みたいになったこともあったりして。

いや、全部若気の至りですよ。正直な告白をしてるってだけで、今はそんなことは思ってません。

で、この作品は、4年前に公開された作品なんですが、監督(と、原作者)は恐らく、同世代に向けてこの作品を放ったんじゃないんだろうか、と。「家族」というテーマで。

正直、「親なのに子どもを理解出来ない」なんてセリフ、あんまりピンと来ないんですよね。俺としては。
もちろん、俺に子供が出来たら、また変わってくるんでしょうが。

まぁ、“理解”云々はともかくとして。
その、「“親”とはこうあるべきだ」という規範がまずあって、という物語ですからね。規範に対する葛藤とか苦悩とか。
もうちょっと世代が下ってくると、だいたいその規範自体がもうなくなってたりするワケで。

例えば「積み木ナントカ」でもそうだけど、「家族が壊れていく過程」を描く作品、というのが、ある時代においては、それこそ大量に作られたワケです。「家族ゲーム」もそうでしょうけど。
で、その後には、「壊れた家庭を修復しようとする親」とか、「父親」とか、「守ろうとする母親」とか、そういうのに主題がスライドしてくる。子供が家族を繋ぎ留めようと奮闘したり、とか。
で、この作品では、「せめて外枠だけでは」とか、「崩れている家庭を受け入れようとする父親」とか、そんな姿が描かれる、と。作中、誰も“修復”しようと動いたりはしませんからねぇ。つまり、ここで描かれている家族の姿というのは、既に壊れていて、その状態に誰も何もどうしようない、という。途方に暮れちゃっている感じ。子供すらも。
唯一(正確には、トヨエツも、ですけど)継父だけが、まだどうにかなるんじゃないか、と、無精ひげ面で叫んだりする。
で、それを、「いかにも青臭い」的に描く、と。

個人的には、“その先”に今はフォーカスしたい、みたいな感じなので。


うん。この作品でも、最後にトヨエツが示唆してたりするんですけどねぇ。あの、親たちに浴びせる罵声こそが、実は、次のアウフヘーベンの素となるアンチテーゼ(もしくは、テーゼそのもの)なんだと思うんですが。



と、なんだか生意気口調でつらつら書いてしまいましたが、個人的なアレは、とりあえずここまで。



作品は、まぁ、素晴らしいですよね。昼間にこんなブツを観ちゃったおかげで、今日のバイトは全く身が入りませんでした。

最初の20分くらい、登場人物たちの白々しさを表現する為に、徹底的に「間」を外してるんですね。“最初の”というのは、死体が現れる前まで、ということで、それ以降は、「間」のズレはなくなって、まぁ、ピタッピタッとキッチリ撮っていく、と。登場人物たちも、本音全開になりますからね。
柄本明さんなんか、ホントに気持ち悪いし。(ちなみに、俺はスズナリ劇場の前で、ご本人を見かけたことがあります。なんか、下着みたいなランニングを着て歩いてた記憶が・・・)
それから、黒田福美さんも、そうとう気持ち悪い。顔がキレイなだけに、余計にそんな感じです。

トリック自体は、まぁ、オリエント急行ネタというか、そんなにビックリはしないんですが、やっぱり、その動機ですよね。「血の繋がり」というのが最後に伏線になってくるとは、思ってなかったので。

そして最後の、実は5人が喪服を着ている、みたいになってて。それが、継父の「青臭さ」みたいのを逆説的に浮かび上がらせている、という。
「死んだ人を弔う気持ちはあるのだ。でも」という形になってるワケです。黒い服の5人が林の中に並ぶ姿が。

その辺の、情報の盛り込み方、というか、情念の描き方、というか、まぁ、ビンビンですな。

音楽もクール。調べたら、松尾潔さんが音楽を担当してました。さすがKC。分かってますね。



あ、それから、世代の話に戻っちゃいますけど、実は「世代間闘争」にもなってるんですね。柄本さんが「若いだけじゃないですか」ってセリフを言ってますが、その、死んじゃう彼女の若さが、憎かったりするんだろう、と。
それは、子供たちに対しても、そうだろうし。
自分たちの価値観に対する、若い世代からの挑戦があって、それに対して必死に抵抗している物語でもあるんじゃないか、と。

あとはまぁ、鶴見辰吾と杉田かおるの夫婦役というキャストですよね。これは完全に、同世代へのメッセージでしょう。もちろん、薬師丸ひろ子もそうだけど。



つーワケで、この辺で。昼間にテレビで観たっていうことで、画面がちょっと明るくなってたのが残念ですかね。あんまり“暗闇”って感じになってなかったので。夜中とか、それこそ映画館で観れば、もっと黒味が効いてて良かったんだと思います。
あ、あと、別荘の“汚し”が足りないかな、なんて。いかにも新設したセットです、みたいな外観になってたので。
いや、無理やりケチ付けてもしょうがないっスね。
いい作品でした。



2008年10月12日日曜日

「ソードフィッシュ」を観る

シネマ・エキスプレスで、「ソードフィッシュ」を観る。


結論から言ってしまうと、あんまり面白くはなかったんですが、ちょっと参考になったかなぁ、という感じの、まぁ、佳作ってヤツですかね。
ざっくりカテゴライズしてしまうと、B級アクション映画ということになるんでしょうが、クラッキング(ハッキング)をストーリーの要素の中に取り入れている、という。そこら辺が“新味”ってことなんでしょう。
主人公はハッカーで、彼を中心に、犯罪組織とFBIがいて、犯罪組織も実行部隊と黒幕で対立があって、という風に、色んな人たちが入り乱れる、という造り。
その“人間関係”的には、最後にどんでん返しがあるんですが、そこはそんなにグッとはこないです。というより、つまらない。


ジョン・トラボルタが、カリスマびんびんの組織のリーダーを演じてるんですが、ストーリーの途中で、彼の“本性”というか“動機”というか、“目的”が明かされるんですね。本人の口から。
で、それが、サブい。かなり。
明かされた瞬間、もの凄い空虚な感じになるトコは、逆に面白いぐらいですけど。
最初の30分ぐらいの、「1人目のハッカー」が殺されたり、上院議員がよく分からなかったり、という部分は、結構よかったりするんですけどね。
ドン・チードルだし。


で、ハッカーが主人公ということで、アンチ・システムなハッカー・カルチャーと、(最初はそういう風に見える)ヤクザなアウトローたちの雰囲気(空気感とか、そういうアレ)とが、ワリと上手にミックスされてて、そこは良かったですね。
多分、「暴力」を担当する人たちと、「クラッキング」の人たちを、ちゃんと分けてるのが、上手くいってる理由だと思うんですが。
クラッキングの描写自体は全然カッコ良くないんですが、出身大学の古いコンピューターにプログラムを置く、とか、ちょっと面白かったし。



あとはまぁ、無駄なアクション・シーンが満載で(カネはもの凄い掛かってます)、なおかつハル・ベリーを中心にお色気もたっぷりで、そういう意味でもB級感はばっちり。
あとは、FBI幹部のダメ官僚っぷりや、全く意味なく、広告代理店の会議室が破壊されたり、そういう部分にはライターの意図を感じてしまったり。
まぁ、その辺は、ハッカー・カルチャーに寄り添ってる、ということなんでしょう。



あ、それから、画面の色味で、ずっと黄色が強調されてて、それは印象的でした。冒頭のシークエンスの夕陽の色とか、結構クール。





という感じでした・・・。


2008年10月9日木曜日

香川照之が黒沢清を語る

先週、新聞に掲載されてたんですが、香川照之さんが「出会う」というタイトルでコラムを寄稿してまして。
ちょっと長いんですが、ご紹介します。

1997年の9月は、私にとって不思議な転換点となった。「蛇の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時の「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えてるぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂が乗り、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清のとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。
黒沢清はそんな私に実に具体的な指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。
「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきてくださいますか。あ、こっちに来る意味は、全然ありません
この、「意味は全然ない」という言葉を、その時私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では想像し得ない直観的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗、だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。
この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。


香川照之さんという人は、ご存知の通り、猿之助さんのご子息なワケですけど、その、本人は東大を出ている、という、非常にインテリジェントリィな人間でもあるんです。
まぁ、この、過度に“理屈っぽい”文章を読めば、その人柄がなんとなく分かると思うんですが。



その香川さんが、32歳の時の“出会い”ですね
で、その香川さんの俳優としてのキャリアを見てみると、やはり、この黒沢監督に言われた「意味は全然ない」という一言が、大きな影響力を持っていたんだな、ということが何となく感じられたりして。



だって、昔は「静かなるドン」とかやってた人ですからね。


まぁ、黒沢清偉大なり、と。そういうことで。


2008年10月7日火曜日

「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る

新宿のテアトル・タイムズスクウェアで、ショーン・ペンの監督作「イントゥ・ザ・ワイルド」を観る。


月曜の午前中の回だったんですが、お客さんは思ったりよりいましたねぇ。ちょっと不思議な感じもしましたけど、まぁ、悪いことではないっスね。


正直、これといった感想はなかったりして。
もちろん、とてもいい作品なんですけど。

この作品には原作があって、実際に、もう15年以上前になるんですけど、アラスカで若者の遺体が発見されて、その若者について取材して書かれたノンフィクションというのが書かれて、それをショーン・ペンが映画化した、と。
もちろんS・ペンのことですから、自分で製作も兼ねて(つまり、映画化権を買ったりとかも自分でやって)、自分の手で映像化して、と。


とにかく、この、実際にアラスカで死んだ(当時は)名も無い若者の存在が、まず或るワケで。
原作となったノンフィクションも、この作品も、やはり彼の存在(意思と行動、そして死)に対して受けた衝撃みたいなのが、そもそもの始まりなワケで。


欺瞞に満ちた両親の人生に対する疑問。それはつまり、自分のアイデンティティへの疑問になり、両親への憎しみや怒りや、まぁ、そういう諸々となる、と。
それが、アラスカ行への動機になるんですね。

で、その道中を丹念に追っていく、という造りになっているのが、この作品。
ってぐらいの感じなんですよねぇ。

旅の途中の出会いと別れを描いていく、と。


いや、ホントに素晴らしい作品だと思うんです。
映像美も素晴らしいし。(そういう意味では、あの映画館で観たのは、ホントに大正解かも)



ただ、これはホントに正直に吐露すると、自分とあまりにも重なってる部分があって、なんていうか、「痛い」気がしちゃって。
真っ直ぐ観れない。

もちろん、別に「ウチの両親」が、作品と同じような“欺瞞”を抱えていたワケでは、全然ないんですけど。
つまり、動機は全く違うんだけど、やっぱり似たようなアイデンティティ・クライシスを経験してしまっていたので。

結局、俺は“戻ってきた”ワケですが。



まぁ、でも、きっと、ショーン・ペンにも、そういう経験があったのでしょう。
監督に限らず、原作を書いたノンフィクション作家も、映画を評価したような人たちも、誰もがみんな、そういう経験や、願望や、まぁ、それに近いモノを持っていた、と。

そういうことですな。



うん。



そういう、俺にとっては、極めて個人的な部分に触れる(別に揺さぶるって程ではないにしろ)ような作品でした。




2008年9月24日水曜日

「へヴン」を観る

月曜映画で、「へヴン」を観る。


いやぁ、凄い作品でした。2002年公開作品だったということで、観てなかったことを後悔しましたねぇ。

取りあえず、何が凄いって、画の「構図」です。凄い。
パーフェクツ!

取りあえず、冒頭のフライト・シュミレーターの映像で、いきなりびっくりさせられちゃって、で、問題は、その後。
エレベーターの一連のシークエンスが、凄すぎです。マジで。
主人公が乗っているエレベーターが下りてきて、後にそれに乗ることになる親子が、そこに向かって歩いて行くカット。その前の、ビルの壁面を上昇していくエレベーターとか。

とにかく、一つ一つの画の“キマり方”がハンパない。

で、ちょっとデータを調べたんですが、「ラン・ローラ・ラン」で名前を売ったドイツの監督さんです。名前は、トム・ティクヴァ。まぁ、ご存知の方は多いと思うんですが、恥ずかしながら、俺は知りませんでした。ちなみに、最新作は「パフューム ある人殺しの物語」です。DVDが出たばっかりのようなので、さっそく、近いうちにレンタルしたいな、と。

で。
「撮影」がフランク・グリーベという人。ティクヴァ監督の作品全部にこの人の名前があるので、多分、この人とのコンビで監督が作り上げているんでしょう。

しかし、この画の説得力は、ハンパないですよねぇ。


シナリオが、これは別の“巨匠”が書き遺していたモノで、その、時代設定がちょっとボヤかしてあるんですね。
一応、現代のイタリア(トリノらしい)なんですけど、ワリと、トリックというか、仕掛けの部分が古くさくて、下手したらウソ臭さが出ちゃうようなアレなんですけど、この監督の画ぢからで、有無を言わせず納得させてしまう、という。受け手の側を。

映画というのは、物語を映像で“語っていく”ワケですけど、この、「俺はこの話を語っていくのだ」という迫力がある、というか。画面に満ちている、という感じ。それが、ビシビシ伝わってきちゃって。

もちろん、主演のケイト・ブランシェットの凄味もあるんですけどね。
ただ、個人的には、彼女の存在感にフォーカスしたアレはなくって、どちらかというと、画の全体の構図とコミで、良かった、という感じです。

彼女の、無機質な(と、表現して構わないと思います)雰囲気が、硬質なタッチのライティングと、とてもマッチしてて。

無機質な場所でのシーンだけでなく、後半の、イタリアの田舎の田園風景を映すシークエンスも、もの凄い綺麗ですしねぇ。
電車の、トンネルの中のショットとか、最高でした。



う~ん。



これ、個人的に、レンタルじゃなくって、DVD買ってもいいかも。家に置いておいて、たまに見返すぐらいの感じで。
「ラン・ローラ・ラン」もチェックしてみないとなぁ。多分、そうとう勉強になるハズです。


というワケで、観てから24時間ぐらい経つんですが、全然冷静に語れません。


2008年9月23日火曜日

「ヴァージン・スーサイズ」を観る

ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」を観る。

ソフィア・コッポラ監督の、これが、デビュー作ですよね。確か。
当時、随分話題になったって記憶してます。


で。
記憶といえば、なんですが。
この作品を観た、知り合いの女の子と、この作品の印象が全く違っていた、という経験がありまして。

彼女も、いわゆる「映画監督志望」だった人で、当然、一緒にいると、色んな作品について話したりするようになるワケで。
で、当時のソフィア・コッポラは、なんつーか、「Xgirl」がどうのとか、スパイク・ジョーンズがどうのとか、グランド・ロイヤルの周辺がどうの、とか、そういう諸々のトピックが、色々あって。
日本の「女の子」に、もの凄い影響力があったんですよ。
で、多分、彼女も、それにモロに影響を受けてて。

で、当然、その、彼女の、この作品に対する評価がもの凄い高くて、その、評価が高いこと自体は、別に俺も納得してたんだけど、観て、受け取っている内容が、俺と全然違っていたんですね。
「あぁ、そうか。そういう風に観るのか」と。なんか、結構、カルチャー・ショックじゃないけど、そういうのがあったりしたんですよねぇ。


どういう事かと言うと、俺なんかは、「語り部」になってる男の子の視線に、完全に同化しちゃうんですよ。
つまり、作中で語られている通り、「彼女たちは何処かへ行ってしまった」と。なんだか、分かんないまま。

もちろん、分かるんですよ。理屈では。彼女たちの自殺(複数形で、スーサイズSuicides となっているところは、ポイントです)の、理由は。
でも、それは、そう語られているからであって、それ以上の何かは、あんまり感じなくて。

ところが、あるタイプの女の子っていうのは、それ以上の“共鳴”というか“共感”というか、そういうモノを感じるみたいで。
最初に死んでしまう女の子についても、作中では、ホンの少ししか触れられないんですが、逆に「それで十分!」みたいに感じる人も、いるんですね。

いや、この作品を否定しているワケじゃないですよ。
逆に、凄いな、と。そう思ってるんですけど。


まぁ、例えば、キレ味が抜群の時のマイケル・マンの凄さを、普通の女の子が、絶対に感じとれないのと同じようなモンで。


この作品のマーケットからは、俺は、疎外されているのだ、と。

だけど、敢えて“誤解”と書きたいんだけど、誤解を生んでいる原因は、作品にもあって。
それは、男の子に“語り部”をさせているところ。
これが、「ロスト・イン・トランスレーション」になると、そういう、「男の目線」からは、観れないようになってるワケです。(「マリー・アントワネット」は、未見なんで、分かりません)

何が言いたいかっていうと、「だからしょーがねーだろ」と。カン違いしちゃっても。



まぁ、でも、なんていうか、ああいう「抑圧」みたいのを、女の子っていうのは、日常的に感じていて、そういう部分に、ソフィア・コッポラの感性が、共鳴してるんだろうな、と。
これはホントに、「だろうな」っていうアレなんですけどね。


うん。
だから、俺なんかが、電話越しに、ポップ・ミュージックのレコードで「会話」するシークエンスにグッときたり、「そういえば、俺にも、あんな頃が・・・」なんて、初めての彼女のことを思い出したり、そういう感想っていうのは、多分、あまり意味のないことなんでしょう。
残念ながら。
この作品は、愛されながら、同時にそれが、束縛であり抑圧である、という、世界中の女の子の為の作品なのだ、と。

女の子に恋したり、愛したり、フラれたり、裏切られたり、なんていう、バカな男の子の物語は、別のヤツが作ればいいんだしね。


と、いうことで。良い作品でした。

2008年9月22日月曜日

「クジラの島の少女」を観る

ニュージーランド映画の「クジラの島の少女」を観る。

ニュージーランドには、脈々と、映画産業というか、映画文化がずっと流れてて、まぁ、時々こういう、世界的な良作かつヒット作品が出てきますよね。

この作品も、素晴らしいです。
原題は「ホエール・ライダー」と言って、文字通り、「鯨に乗る人」という、部族の伝説から取った言葉なんですけど、この邦題は、なかなかイイっスね。
うっかり「鯨に乗る少女」だと、これは完全に失敗でしょうし。


とりあえず、シナリオのディテールが良くって、部族(民族?)の伝統を、一本の綱で語らせたり、しかもそれが、ブチッと切れてしまうという、あまりに切ない描写があったりして。
それから、長男と祖父との関係。ヨーロッパ人の新しい奥さんのことが露見するシークエンスも、とても上手ですね。「ただの土産物だ」というセリフの切れ味も、良いし。
テーマ的にはもの凄い大きなモノを扱いながら、こういう、細かいディテールで持って語っていく、というやり方は、とてもいいと思いました。こういう時って、やたら声高に、例えばセリフやナレーションや、扇情的な描写で語っていくという手法に陥りがちなんだけど。クールな語り口をしっかり守ってて。
それが、凄い効果的だな、と。


作中、「労働」の描写が殆どないんですね。特に、男たちの。
みな、怠惰に、酒を飲んでダベっているだけ、という。まぁ、その辺は、少し事情に明るい人なら、ピンとくると思うんですが、そこの説明はちょっと足りないかなぁ。
ま、でも、なんとなく分かってくれればいいのか、という気もします。

次男の存在が、後半は結構ポイントで、「実は結構リーダーシップがあった」というキャラクターで。
つまり、族長であるお祖父ちゃんは、そこから間違えてた、と。最初から、ちょっと繊細な長男よりも、次男の方が、“素質”はあったんですよねぇ。
で、その次男が、叔父として、少女の成長に一役買う、と。この辺のシナリオの組み立て方も、すごい上手いです。
次男は、ずっとニットキャップを被ってるんですが、これが、ある意味で「アメリカナイズ」の象徴にもなってるんですね。最後に、脱ぎ捨てるんですけど。
それから、海岸に置き捨てられた、巨大なカヌー。それが、少女にとって、父親の代替として、そこにある、と。
そもそも、その、父親がいないことが、彼女の“素質”を開花させた、ということになってると思うんですよね。その、海(つまり、鯨)と直接繋がり合っている、という部分で。

シナリオ的には、もう一つ。1人の少年の、父親ですね。要するに、ヤクザみたいな生活になっちゃってて。
そいつが、最後には、“誇り”みたいのを取り戻して、息子もそれを喜んでて、みたいな。
これも、変な伏線みたいには扱ってなくって、あくまで、一つのサイドストーリーみたいに、サラッと語ってるだけで。


映像的には、もう、これは完全に正統派で、美しい自然と、苦悩する人間たちの表情を、まっすぐ撮っていくだけ、という。これも、素晴らしいです。どちらも、変に強調し過ぎることをしてないしね。
ストーリーも、真っ直ぐ進んでいくだけだし。失敗するんだろうなぁ、というところでは、失敗し、上手くいくんだろうなぁ、というところでは、上手くいき。ただ“時間の流れ”で、ストーリーをドライヴさせていく、と。
困ったときは、雲が流れる空の画で、それを間に挟んで、画を繋いでで、もちろん、それはそれで、正解だと思います。

それから、音楽で、ちょっと気になったのが、父親と旅立とうというシーン。
ワリとモダンな、ちょっとトランシーな音楽が流れてるんです。これは多分、これから生活するヨーロッパを暗示しているんですけど。
これは、まぁ、ベタっちゃベタなんだけど、音楽自体が、結構高揚感を出すような雰囲気の曲なんですね。この選曲は、上手いです。
だけど、それを振り切って、結局父親とは別れて、残るワケですからね。



という感じですかね。

でも、こういう作品を観ると、例えば、日本の「我々」が、小さな、チマチマした物語しか語れていない、ということを、考えさせてくれますよね。

うん。いい作品だと思います。ホントに。

2008年9月21日日曜日

「グッド・ボーイズ」を観る

ミッドナイト・アートシアターで、アイス・キューブが製作と主演の、「グッド・ボーイズ」を観る。


ちなみに、このタイトルは邦題ってヤツで、当然「バッド・ボーイズ」を意識したモンですね。
というより、パクリ。
原題は「All About the Benjamins」で、“ベンジャミン”というのは、スラングで100ドルかなんかの紙幣のことですね。日本で言う、「諭吉さん」とか、そういうアレです。


さて。
アイス・キューブが製作もしてるってことで、まぁ、殆ど彼が自分の為に作った、ということですね。いいビジネスだと思います。
シナリオは、やっぱりちょっとショボイ部分もあるんだけど、それなりに、ツボを押さえている気もするし。

その、ちゃんと、伝統に則った「バディ・ムーヴィー」ですからね。
ある意味で、正統派ですから。ギャグはサブいけど。


監督さんは、やっぱりビデオクリップ畑の人なのかなぁ、という感じを受けたのが、構図の巧さ。カメラマンの腕なのかもしれませんけど。
キメの画、みたいのがあって、そのポイントポイントのショットは、巧いな、と。
あと、時々ストップモーションになったりして。演出上の意味合いは、全く無い、と言っていいと思うんですが。でも、まぁ、見ようによっちゃ、クールなんでしょう。それが。
柵を飛び越えるショットが、スローモーションになったりして。


あと、これも、時間的な制約がもの凄いあるビデオクリップの人ならではなんだろうけど、編集というか、画の繋ぎ方が、上手。
上手く飛躍させてて。
もちろん、それこそスティーブン・ソダーバーグのような巧さとは違うんだけど、ホントにちょっとした所で、上手にスピード感とかリズムを出してる気がしました。


あとは、やっぱり、アイス・キューブかなぁ。
いい演技しますよねぇ。
表情がいちいちイイです。ホントに。

これは、どこの国でも一緒だと思うんだけど、そもそも俳優さんを目指そうという人は、自分の外見に自身がある人なワケで。まぁ、悪い言い方をすれば、ナルシスト。ただの。
そういう人たちには、出来ない顔をするワケですよ。アイス・キューブは。
いいと思います。


だいたい、ちょっと小太りの彼が全力疾走してるだけで、そのリアリティは、群を抜いてますから。
そういうのって、大事だと思うんです。



ま、逆に言うと、それだけかも、という作品ですね。
全く意味の無い空撮とか。
あとは、タイアップも、結構ガッツリあったし。コカコーラとか、Enyce とか、あと、多分車もそうで(レクサス)。
いや、ま、それでいいんですけどね。全然。
そういう意味でも、勉強になりますな、と。
うん。



しかし、アイス・キューブは、映像ビジネスがホントに順調なんですな。


2008年9月19日金曜日

「ブローン・アウェイ」を観る

午後のロードショーで、「ブローン・アウェイ 復讐の序曲」を観る。


な、なんつっても、敵役がトミー・リー・ジョーンズですからね。


もう、10年以上前の作品ですかねぇ。
特に改めて感想として書くほどのアレは、正直、ないんですが、とにかく、トミー・リーの悪役のハマりっぷりが、タマらんですな。ホントに。


ここにも何度か書いてますが、こういう、“悪の権化”っていうキャラクターって、好きなんスよ。
えぇ。


「絶対的な悪」っていう存在を、物語においても描きにくくなってますけど、だからこそ、という意味で。
“悪”が絶対的であればこそ、それに対峙する人間の“脆さ”とか、もちろん“美しさ”とか、そして“苦しみ”とかを輝かせることが出来るワケで。


ま、ドラマツルギーとしては、古いスタイルなのかもしれませんけどね。



うん。


IRAだとか、アメリカ・東海岸(ニューイングランド地方)にあるアイルランド系のコミュニティの存在とか、そういうのも色々踏まえたうえで、という作品なんでしょうけど、しかし、トミー・リーの存在感あっての、という企画でもあったハズです。


ジャック・ニコルソンよりも、ヒールとしては、トミー・リー・ジョーンズかな。俺としては。



あ、それから、主人公のカウンターとして、「黒い鶴瓶」こと、フォレスト・ウィテカーが出てます。スゲェ若いですけど。
フォレスト・ウィテカーの独特の存在感も、いま観たらちょっと面白いかも。


ま、そんな作品でした。

2008年9月16日火曜日

「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」を観る

トミー・リー・ジョーンズの監督・主演による「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」を観る。


ちなみに、このエントリーを書くにあたって、軽くデータを調べたら、この作品の脚本を書いている人は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督と組んで仕事をしている人で、「アモーレス・ペレス」から「バベル」までの一連の作品を書いている人なんだそうです。
いや、凄いね、この人。
ちなみに、この作品と一緒に借りてきたDVDに「バベル」があります。こちらは、今週中に観るつもりでっす。

さて、内容ですが、これまで数々の作品のモチーフになっている、メキシコとの国境線の“両側”が、テーマですね。国境というのは、“境界線”そのものなんですが、その、ある種の人たちにとっては、その境界は、「たまたまそこに引かれているに過ぎない」程度の存在だったりするんでしょうが、しかし同時に、それは、命を懸けて超える対象になり得る、と。

で。
この作品ではさらに、“孤独”というテーマが語られています。国境のこちら側、つまりアメリカ人は、徹底的に、孤独であるように描かれています。
そして、その向こう側の人間たち、つまりメキシコ人たちは皆、家族を持ち、家族を愛し、その為に生きている、と。そう描かれるワケですね。

死んでしまったメルキアデスは、家族を愛するがゆえに、「死んだら故郷に埋めてくれ」と語るワケです。
そして、トミー・リー演じるピートは、その、メルキアデスが持っている(と、語られる)家族への愛情へ、“憧憬”を抱く、と。
それが、メキシコへ“越境”する動機になるワケで。

その、アメリカ人の“孤独っぷり”の描き方っていうのは、まぁ徹底してますよね。
ダイナー(飲食店)の、ガランとした空間と、青白い色味が醸し出す、白々しい、寒々しい空気感というのは、メキシコの村にある、ガヤガヤした、若い女性がピアノを弾いている飲み屋と対比されているし。
同じテレビ番組を観る、というメタファーも、片方は、優しさの欠片もない(その“早さ”も含めて、ね)セックスが行われるキッチンと、もう片方は、隣人愛的な優しさを分け与えてくれるメキシコ人の猟師たち、という風に描かれて。
国境近くに住んでいる盲目の老人の描き方なんかも、取りようによっては、結構エグいしね。

つまり、アメリカ人たちは、孤独で、空虚な人間関係の中で生き、対照的に、境界線の向こうの住人であるメキシコ人たちの生活は、家族愛や隣人愛に満ちた生活を送っている、と。


その、アメリカ人たちの孤独っていうのは、虚栄心とか、そういうのに繋がってるんだよね。「男ならクールであれ」みたいな同質化圧力みたいのが、多分アメリカ社会にはあって。
この虚栄心についての部分が、結構ポイント。



で、ストーリーは、前半はアメリカの田舎町での、ちょっとサスペンスな雰囲気で“犯人探し”があって、中盤以降は、国境越えと、その後の、砂漠を歩いたりする、ロードムーヴィーになるんですね。
その、砂漠を越える道中と、最後の地で、犯人の“虚栄心”が剥がれていく、みたいな流れになってて。
あまりその部分にフォーカスはされてないんだけど、恐らく、作り手側にとっては、大事なテーマになっているんだと思います。


演出面では、とにかくセリフが、削ぎ落とされていて、これはホントに、素晴らしい。
これは、トミー・リーが製作も兼ねているところから考えると、シナリオ段階でトミー・リーの意図がかなり込められていて、そういう、セリフを絞った脚本を敢えて作ったんだと思うんですが。
その、セリフではなく、動きや、背景やら立ち位置やらの画面自体、そして俳優が演じる“間”で、語っていく、と。
役者が自分で作品を撮るという時に、こういう、無言の部分が多いモノが出来上がる、というのは、興味深いアレなんですけど、でも、こういう作品こそを作りたかった、と。そういうことですからね。

とにかく“間”をたっぷり取った演出は、素晴らしいです。ホントに。
というか、大好きです。


もう1つ、素晴らしいのは、背景となる、テキサスとメキシコ(まぁ、地続きなんですけど)の風景ですよね。空とか、超キレイ。
田舎町の、夕方の赤い色味なんか、最高ですよね。多分、この光線の美しさを立たせる為に、昼間と夕方で、敢えて同じ構図のショットを作ってるんだと思います。
それから、砂漠。野生のヒマワリの間を必死こいて犯人が逃げるショットは、良かった。


もう1つ、これはホントに上手いと思ったのは、やっぱり、車の使い方ですね。
ピートの車が、ボロボロのトラックだったり(これは、後々の馬に乗る姿との対比にもなってて)、保安官の半ドアの警告音が、面白かったり。

あと、馬。馬と、ラバ(ラバって!)。
ラストの馬についてのシークエンスが、効いてるますよねぇ。いいです。



うん。

シナリオと、いい役者と、巣晴らしいショットと、そういう諸々が幸福な出会いをしている、素晴らしい作品ですね。



それから、追記的に書いてしまうと、「ノー・カントリー」はこの作品からかなり影響されていると思うんです。
で、そう考えると、イニャリトゥ監督が与えた衝撃っていうのは、ホントに大きかったんだなぁ、と。改めてそう思いました。

2008年9月14日日曜日

「ワイルド・チェイス」を観る

金曜日の深夜にシネマ・エキスプレスで放送してた「ワイルド・チェイス」を観る。主演はジェイミー・フォックスとデヴィッド・モースで、2000年公開の作品なんですが、日本では劇場未公開みたいです。原題は「BAIT」。


劇場未公開というアレでも察せるとおり、いわゆるB級アクション映画ですね。

原題の“bait”というのは「釣り餌」という意味の言葉らしく、実はこれが、なかなかいいタイトルなんですよ。実は。釣りに使うルアーとか、そういうモノだと思うんですが、あれって、魚の口に引っ掛るワケで。
それが、結構、内容にマッチしてるところがあったりして。

で、内容は、J・フォックスが、いわゆる“コソ泥”。で、デヴィッド・モースが、財務省の捜査機関のエージェント。
これにもう1人、財務省の金塊を狙った強盗犯というのが登場して、三つ巴になるんですね。この強盗犯というのが、クラッキングを武器にした“凶悪犯”かつ“大強盗”で、D・モースがこいつを捕まえる為に、J・フォックスが“釣り餌”に使われる、と。

いや、結構いいアイデアだと思うんです。よく出来た設定だなぁ、と。

凶悪犯対エージェントたちの“空中戦”と、地べたを這い回っているフォックスの“地上戦”の、両方が上手い具合に描かれてて。

フォックスの演じるキャラクターが、ちょっとコミカル過ぎて、そこが鼻につきますけどね。エディ・マーフィのエピゴーネンを狙い過ぎ、という感じで。
フォックスは、もうちょっとシリアスな、渋みを抱えた役どころの方がしっくりくる感じがします。デンゼル・ワシントンとウィル・スミスの、ちょうど中間ぐらい。
まぁ、2000年の作品ですから、まだフォックスも若かった、と。この作品では、あんまり良くないですね。


ただ、シナリオは、ホントに上手だと思いました。
“釣り餌”が市警に捕まらないように四苦八苦したり、生活費を工面したり、それがバレた後に、フォックスが逆に罠を仕掛けたりして。
クライマックスの対決するシークエンスのアクションは、個人的には蛇足って感じでしたけどね。引っ張り過ぎで。でも、B級アクションですからね。これは、しょうがないっス。

あと、捜査本部がちょっと豪華過ぎ。WTCにあるっていう設定も、今となっては、複雑な気持ちにさせちゃうしね。


あと、デヴィッド・モースの、登場していきなりブチ切れる演技は、ちょっとびっくりしました。「え? 今回ってそんなキャラ?」みたいな。「クロッシング・ガード」の彼が印象強過ぎて、どうしても、ああいう“苦悩”を抱え込んでる、みたいな想像をしてしまうので。
この作品では、思いっきり逆の方向に振り切ってます。さすがに、上手ですけど。



それから、クラッキングする時の描写が、なんかウィザード形式になってて、面白かったですね。コンピューター側が女性の声で質問してきて、使用者(凶悪犯)が、それに答えていって、コンピューターを操作する、という。
その、クラッキングという、映像的に表現するのがちょっと難しいアレを、行為自体を上手に説明しつつ、ちゃんと成立させているな、と。これは、参考になります。



というワケで、B級アクション映画ながら、楽しめた佳作でした。


2008年9月11日木曜日

「マイ・シネマトグラファー」を観る

アメリカン・ニュー・シネマ期を支えた1人である、有名な撮影監督についてのドキュメンタリー「マイ・シネマトグラファー」を観る。


これは、公開してた時に、タイミングを逃して観にいけず、DVD化されるのを待ってた作品でした。
正直、近くのレンタル屋さんに並んでるのを見たときには、まさかこの手の作品を置くとは思ってなかったので、意外でしたけど、嬉しかったので、さっそく借りてきた、と。



しかしまぁ、いくらニュー・シネマが好きっていったって、監督や製作者の名前は見知ってても、撮影監督の名前までは頭には入ってないもんで、この作品中にズラッと出てくる作品のタイトルの並びには、ビックリって感じですけどね。

その、当の撮影監督の名前は、ハスケル・ウェクスラー。(参考までに、こちらを)
で、このドキュメンタリーを撮っているのは、その息子さん。



さて。
タイトルと、まぁ、公開時の宣伝の内容(の、記憶)から勝手に、撮影監督としての数々の仕事を振り返る、という内容なのかと思ってたんです。
「へぇ。どんな風に撮ってたのか、勉強になるかも」みたいに思った人も沢山いたと思うんです。
が。
違います。
作中での、そう「告げる」父親の姿が映りますが、1人の映画人としての業績を追っていくような内容でなく、よりパーソナルな、「より内面的な」ドキュメンタリーになんです。
というより、撮られる本人が、撮る側である息子を、作品をそういう方向に持っていくように誘導(挑発)している、という感じ。

その、親子関係というのが、あんまりシックリきてなくって、もの凄い豪華メンバーが登場するんですが、彼らが、もの凄いフランクに、「父親との関係をアドバイスする」という感じになってて。

「父親との関係を受け止め直そうとしている息子」のドキュメンタリーになっている、と。

いや、それが、とても面白く仕上がってるんですね。
ちょっと期待していた内容とはズレるんですが。


その、父親というのが、結構強烈なパーソナリティの持ち主で、その父親の政治スタンスに巻き込まれないように苦心する息子の姿、とか、結構面白い。
息子本人も、それなりに成功している人物で、アメリカの過去三代の大統領についてのテレビ番組を作ってるような人なんですね。
で、近いうちに今の大統領のブッシュをインタビューする予定が入り、“左翼グループ”の集会に出席しようとしている父親を追いかけ切れない、というシークエンスがあったり。
この辺の苦悩は、とてもイイです。


自分の老いを受け止めようと苦悩する父親の姿。
その父親に奔放だった私生活についての告白を頼んだり、デモや超ビックな女優を取材する父親に同行したり、“同業者”としてその姿勢にダメ出しされたりしながら撮影を続ける息子の姿。
どちらも、とても面白いですね。



こういうドキュメンタリー作品って、自分で作ったりしてみたいんですけどねぇ。チャンスがあれば。
好きなんですよ。えぇ。



というワケで、期待していた内容とは裏腹ながら、とても良質なドキュメンタリー作品でした。
ホントにお薦めっス。

2008年9月10日水曜日

「アウト・オブ・サイト」を観る

スティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペス主演の「アウト・オブ・サイト」を観る。
ちなみに、午後のロードショーです。昼間っからスイマセン。ホントに。



で。内容ですが。
ま、ソダーバーグ監督らしい良作ですな、と。
というより、個人的に、特に最近改めて、ソダーバーグがツボに来てて、この作品も(未見だったんですけど)やっぱり「いいな」と。

この作品が1998年(10年前!)公開で、この2年後に名作「トラフィック」が公開されてるので、なんていうか、「セックスと嘘と」から始まって、ちょうどインディペンデント・ベースから「ハリウッド大作」への移行期、というか。
予算も、“人件費”にはかかってそうなんですが、そこそこっぽいし。というか、少ないお金で上手に撮ってる感じ。


ソダーバーグ監督の、特にこの作品を観て感じたのは、余計なことをやらない、ということですよね。
これは、予算の制約もあってのことなんでしょうが。
余計な説明をしない、と。カット割りでも、ストーリーの構成でも。もちろんそれが、説明不足になるワケでもなく。
これが、例えばデヴィッド・フィンチャーだったら、敢えて説明しなかったり、逆に情報過多にしてミス・リードする、みたいな方法論で観る側を引っ張るんですけど、この作品では、そういう演出法はしてなくって。


う~ん。
その“あんばいの良さ”が、テンポの良さを生んでるんですかねぇ。

ただただ、ストーリーを前にドライヴしていく、と。もちろん、それだけじゃなくって、過去の時制に戻ったりもするんですけど。
基本的には、一直線に進んでいくワケです。途中に派手なトリックを入れ込んだりもしないで、それでも、最後までしっかり離さない、という。



ま、キャストの存在感っていうのも、当然ありますよね。

キャラクターの演出で、この人らしいなぁと思うのは、キャラクターの輪郭をボヤかしたりしない、という所。○○そうに見えて、実は●●、みたいなことは、この人はあんまりしないですよね。
人物の裏表を描くことで、リアリティや人間味を強調して共感させる、みたいなことは、あんまりしない。
キャラクターは、最後までキャラクターのまま、という感じで。
そのキャラクターの操作方法に、ソダーバーグはもの凄い長けている、ということなんでしょうか。
くっきりと縁取りされたキャラクターを、俳優陣はそこにぴったりハマることで色づけしていくんでしょうけど、それが、あんまり“肉体化”してない感じ。
でも、生き生きしてないかというと、それも違って。

その“突き放し”感は、個人的には大好きです。


あと、乾いたユーモア感とか。
これも、その突き放し感と共通している素質だと思うんですけど。
ユーモアに関しては、監督の「やろうと思えばもっと出来るんだぜ」感も、オシャレで好きです。
いや、それはさておき。
乾いたユーモア。


要するに、余計な感情移入を拒んでるのだ、と、俺なんかは勝手にそう解釈してますけどね。

ラストの、J・Loのニヤッと笑う表情とかも、そんな感じで。
もっとフワッと終わらせることも出来るハズなんですが、ボトッと投げ出されるみたいな終わり方しますからねぇ。
でも、別に、全然“不完全燃焼”な感じはしないし。



うん。

ホントに、こういうシナリオが書きたいですな、なんて。

「セックスと嘘と~」が観たくなりました。レンタルしてこよっと。

2008年9月8日月曜日

「ブロウ」を観る

ジョニー・デップ主演の「ブロウ」を観る。


この作品も、based on the true story ということで、実在のドラッグ密売組織を率いた男の半生を基に、ということで作られています。

ただ、その、あんまり“犯罪色”が強調されてないんですね。印象として。1人の男の、なんていうか、人生と、家族との愛憎劇を描く、みたいな雰囲気で。
いわゆる、クライム・ストーリーじゃありません。基本的に、斬った張ったもありませんし。(1人、名もないキャラクターが撃ち殺されるだけです)。

確か「こちとら自腹じゃ」で井筒監督が絶賛してた記憶があるんですが、個人的には、そんなに星は出ないっすね。★★ぐらいっス。

どうしても、全体的に既視感が強い気がして。焼き直し感というか。
それから、コカイン云々に関しても、ちょっと中途半端な気がしちゃったりして。

う~ん。



個人的に、ヒッピー・カルチャーに対しての憧憬みたいのが一切ない、というのも、この作品の評価に関係してるかもしれませんねぇ。冒頭の「美しい光景」「パラダイスみたいな西海岸」みたいな描写も、すんなり受け止められないので。


あと、母親と奥さんの描写の仕方。徹底的に、美人だけどワガママで、結局カネの話ばっかりで、という風に描かれているワケです。2人とも。
で、父親は誠実な人物で、主人公もそれに倣って、という設定なんですが、正直、その辺も、イマイチ。
要するに、主人公の動機が、自分の母親と、妻と、そして娘にある、という形で描かれるんですが、「いやー、そうじゃねーだろー」と。
ちょっと、主人公を美しく描き過ぎです。美化し過ぎ。
“被害者”みたいに扱われてますからねぇ。
特に父親からみたら、「ただのバカ」なのに。


そうなんですよね。なんか、“浅い”んですよ。いちいち。
コロンビアとかプエルトリコとか、中南米の描写も、浅い。密売組織の雰囲気も、なんかイマイチだし。


なんか、“イマイチ”ばっかりですけど。でも、ジョニー・デップは、メチャメチャいいです。モロにハマリ役。
最後の取引の後の、小さな部屋の中で「報酬をアップする」ところなんか、最高ですね。応戦用のナイフがなくって、気付くところ。

彼だけじゃなくって、キャラクターや演技に関しては、脇役陣もホントに素晴らしいです。ペネロペ・クルスはこっちが悶えるぐらいキレイだし、レイ・リオッタも、“若い父親”から“衰えた父親”まで、超好演だし、スパニッシュたちも、雰囲気最高だしねぇ。
演出面でいったら、そういう部分は最高でした。

あ、あと、J・デップは、声がいいんですよ。



シナリオの問題なんスかねぇ。

あ、あと、音楽について。選曲は、最高です。でも、尺と、映像に対するハマリ具合が、ダメ。
うん。そういう、カットごと、シークエンスごとの描写が、全部サラッと行き過ぎてる気がするんです。色んなところで。全部、サラサラッと語りすぎ、という感じ。
もっとしつこく、この曲でグイッと押して欲しいな、なんていうカットが、幾つかあったので。


ま、いまでもヒッピー・カルチャーに憧れる人っていうのは、たくさんいるワケで、そういう人にお薦めの作品なんでしょう。あと、ジョニー・デップが好きな人。
なんつーか、佳作のくせに意外と予算はつぎ込んでそうな、そういう作品でした。


2008年9月6日土曜日

動的、静的(映像的には)

NHKの深夜の再放送でやってた、「プロフェッショナル」の、羽生v.s.森内の名人戦スペシャルを観てしまいました。
いやぁ、凄かった。面白かったです。


拡大版ってことで、1時間という長さだったんですが、尺的には全然物足りないっスね。100分とかの、いわゆる“映画的な長さ”でも十分イケるでしょ、ぐらいの感じで。


その、映像的に、というか、一つの映像作品として、一つのドラマとしても、完成されていた、という。

将棋っていうのは、もちろん「勝負」なんですけど、映像的には非常に「静的」なワケです。

いわゆる「勝負」を描く映画って、それこそボクシングから、「ベン・ハー」の戦車レースから、野球やフットボールやサッカーや、色々あるワケですけど。それらは全て、映像としては「動的」な内容なんですね。
つまり、“動く画”として最初からある、と。それはつまり、映像という表現形態が扱うに相応しいトピックでもあるワケで。

だけど、「静的」な将棋であっても、十分魅力的な「映像作品」は作れるのだ、と。
その「勝負」自体を、十分魅せる作品を作り得るのだ、ということですよね。とことんその「勝負」に肉薄することで、ですね。

例えば、「静的」な勝負であっても、2人の間には極めて「動的」なやり取りがあるワケで、それを、ある意味無理やりに「映像化」する手法っていうのも、あったりするワケですよ。
アニメーションではこれは普通のアレですけど、いまは、それをCGで作ったりして。
でも、そんなことをしなくてもいいのだ、と。

うん。
NFLっていう、アメリカンフットボールのプロ組織に、「NFLフィルムズ」っていう映像部門があって、このチームが作る映像っていうのが、とても面白いんです。
小細工を一切しないで、とりあえず、スーパープレイをスローで撮る、っていうだけのことをひたすらやっている映像チームなんですけど。
これは、「動的」な素材を、ちょっとだけ「静的」な映像に加工して魅せる、という手法なんですが、引き込まれるワケですね。


で、昨日の「プロフェッショナル」は、「静的」の中にある、ごくごく些細な「動的」な瞬間を、徹底して肉薄することで浮かび上がらせる、という。
厳しい手を指された瞬間の、森内名人の「あっ」という表情なんか、最高でした。

あと、羽生さんの、“手が震える”という、アレ。
まぁ、映像的には、逆に「美味しい演出」の範疇に入っちゃうようなアレなんですけど、それが効いてて。
だって、ホントに震えてるんですもんね。


それからもちろん、盤外の2人の表情。インタビューされて語る言葉、とか。ナレーションも、もちろん。


うん。


こういう方向性って、ずっと前から、個人的に「ある」って思ってたんですが、なんか、それがズバッと目の前に現れたって感じで、そういう意味でも、貴重な再放送でした。

2008年9月4日木曜日

「フライト・プラン」を観る

ジョディ・フォスターの「フライト・プラン」を観る。

いやぁ、なかなか、いい作品でした。


実は、すげぇ早い段階で「ん? ネタを見破ってしまったかも・・・」と思っちゃったりしたんですが、実は、それも“トリック”だった、と。
というか、普通に、まんまと引っ掛ってしまいました。完全に作り手の“カモ”でしたね。そういう意味では。
最初の30分が、「あれは実はネタ振りだったんだな」と、思わせておいて、そのネタが、なんとストーリーの中盤に(つまり、かなり早い段階で)明かされてしまう、と。そこにモロに引っ掛ったのが、俺です。


う~ん。
1回ひねったのを、もう一度ひねったら、ごくごく普通のサスペンスになってる、という。

いや、面白かったですよ。その“ひねり”に全部引っ掛ったワケですからね。


ただ、その、ラストはちょっと間延びです。色々盛り込みたかったんでしょうが。
撃ったり走ったりじゃなく、例えば機長と航空会社のやり取りとか、ベルリンで何か動きがある、とか、そういうところを描いて欲しかったかな。
“交渉”の部分を。

あと、後から思うと、“動機”も、もっと深くてもいい気もします。ジョディ・フォスターの立場に関する怨みつらみ、とか。その、ジョディ・フォスターは「飛行機を作る会社」の人間なワケで、そこを上手く利用した動機付けって、あると思うし。


あと、良かったのが、客室乗務員の皆さんの描写ですね。みんな、美人。そして、慇懃無礼な感じ。スマした感じで。
CAさんのあの雰囲気って、個人的に大好きなモンで。えぇ。


ストーリーの中で、アラブ人に対する人種差別をきっちり織り込んでくるのも、結構ポイント高いです。
いかにもアメリカ人という感じの、肥満体の男が出てきたりして。
ラストで、もうちょっと、その部分をしっかり回収しても良かったんじゃないかと思うんですが。

ラストについては、機長とかCAさんとかとも、もうちょっとなんかあってもいいと思ったかな。
まぁ、その辺は、好みの問題ですけど。
最初に出てくるCAさんが、見たことがある女優さんだったので、ちょっと目が行き過ぎましたね。もうちょっと重要なキャラクターかと、勝手に思ってました。勘違い。



映像は、最初から、とにかく硬質な感じ。特に冒頭は、無人の地下鉄や、地下鉄の駅。それから、霊安室と棺の感じ。それを、最初に飛行機の機内を映すショットに引っ張ってきて、これから起きることを暗示している、という。
まぁ、上手ですよね。
で、ラストのホンの5分だけ、暖色系の光で画を作る、という感じで。
あの、ラストの空間の雰囲気が良かっただけに、もうちょっとあの場面を魅せて欲しかったな、と。繰り返しになりますが。



まぁ、でも、ああいう硬質な空気感に、ジョディ・フォスターは似合いますねぇ。

うん。いい作品でした。

2008年8月25日月曜日

「スパイ・ゲーム」を観る

シネマ・エキスプレスで、「スパイ・ゲーム」を観る。

ブラッド・ピットとロバート・レッドフォードの新旧男前スターの共演ということで、結構話題になった記憶がある作品ですね。
ただ、「あれ? こんな内容だったっけ?」という感じも少しありつつ、と。

決してつまらない作品じゃないんですけど。


ちなみに、R・レッドフォードは、二枚目過ぎて、役柄にあんまり合ってません。全然“枯れて”ないもん。あの雰囲気だと。カッコよ過ぎて。

ストーリーは、定年退職を翌日に控えたレッドフォードの最後の24時間、みたいな構成になってて。
うっかり「事件は会議室で起きてるんじゃない!」とか叫びそうになる感じですけど。

ブラピが中国で単独行動を起こして失敗しちゃって、捕らわれて24時間後に処刑される、ということになり、どうするレッドフォード、と。
ひたすら、CIAのオフィスの中を駆け巡るんですね。レッドフォードが。
そこがねぇ。あんまり面白くない。

会議室で、レッドフォードが詰問調に発言を求められて、ブラピとの出会いを回想するんですが、その“語り”が最初、妙に長く感じて、「変だなぁ」なんて思ってたら、回想自体が、ベトナムから東ドイツ、その後ベイルートに飛んでいって、そこでドラマが展開する、というストーリーの構造になってたんですね。
回想自体がドラマチック、という。
「あぁ。そういう話なのね」と。てっきり、レッドフォードが中国まで出張るのかと思ってたので。
レッドフォードは、基本的にCIAのオフィスから出ませんからね。いったん家に帰るけど、すぐに“出勤”してくるし。
“現在の”ブラピもさっぱりだし。


ま、でも、同僚同士でもお互いに絶対に信用しないし、手の内をさらさないし、常に疑心暗鬼だし、というCIAのオフィスの雰囲気は、良かったですけどね。
エージェント(スパイ)たちの非情なルールの描写も。

だけど、そういうディテールは魅力的なんだけど、ざっくりとしたストーリーが、なんかイマイチ。
最後にブラピを救出するのが、ヘリ部隊の強襲作戦っていうのも、なんかサブいしねぇ。イランの人質救出作戦をモチーフにしてるのかもしれないけど。
ベイルートのエピソードだって、緊迫度200パーセントみたい演出してるけど、実はレッドフォードもブラピも、なにもやってないから。
まぁ、その、「実際には手を下さない」というのがCIAのリアリティなんだ、ということであれば、それも納得なんだけど。

結構最近、「エコノミック・ヒットマン」という本を読んでて、“スパイもの”は実はちょっとタイムリーっていうのもあって、その辺はとても興味深かったんですが。
「エコノミック・ヒットマン」の中では、こういう、CIAのような情報組織のことは「ジャッカル」って表現されてて、繋がる部分があったので。
ま、個人的には、ですけど。


それから、オープニングの、ブラピの独断で決行した作戦の描写は、すごいカッコ良かった。ああいうのは、凄い好きです。あの線でずっと押してくれれば、と。

ま、でも、ロバート・レッドフォードは、カッコいいっスよ。ホントに。こういう作品に出るなんて、ちょっと意外ですけどね。


2008年8月20日水曜日

ストーリーを構造化する

結構意外な感じではあるんですが、大江健三郎さんが、新聞に持っている自分の連載の中で、「新しく小説を書き始める人に」ということを書いてまして。


ちょっと、引用しておきます。


そして小説家の修練は、なによりもまず1つの作品を作り上げることに始まります。続いて大切なのが、すぐには発表しないで書き直し始める意思の強さです。
若い小説家の第一作には、それ自体としては価値はないということか?
そうではありません。そこにはたいてい、一生それが彼の特質を成す、独自のものが含まれているのです。

ただ、その特質をまず自分でしっかり把握する(自分を発見する)為には、最初に出来た作品を書き直すことが必要なのです。若い書き手が、初めての作品を、書く前から構造化することは不可能です。しかし彼に書き直そうとする意思の強さがあれば、その作業が、彼を構造的な小説の書き手とします。つまり初めは構想出来なかったものを、次々に彼自身の具体的な表現と成し得るのです。


ということです。
同じ連載で、「新しく書き始める人へ」のメッセージを書き続ける、とも書いていますので、まぁ、勉強させてもらおうかなぁ、なんて。


ちなみに、こうも書いてます。

世界を覆っている市場原理の大波は純文学のマーケットにも及び、新人の成功には次の新人の成功が期待される。永続きする仕事を準備させる態勢ではありません。生き延びるには、多様な抵抗力を付けておく必要があります。

なんていうか、大江さんなりの“危機感”みたいのが、あるのかもしれませんね。文学界についての。
まぁ、それは、さておき。



リライトすることで、自分の書いた物語を、構造化することが出来る。
逆に言うと、構造化することがリライトの目的である、と。
「構造化」とは、具体例としては、「しかし小説の利点は、時間と空間を拡大しうることだ」とも書いてます。
心理の描写、心理風景、それを何かに投影して描くこと(直喩、比喩、暗喩)。時間軸の恣意的な拡大、歴史の描写と意味の付与、新しい登場人物の創造、対比に因る意味付け。自分が意識しないままだった何かを拾い上げること、などなど。

リライトせよ、と。その意思を持て、と。
そういうことですね。

2008年8月9日土曜日

「メメント」を観る

友だちのライター志望の人が絶賛していた、「メメント」を観る。


とにかくネタバレしちゃうのが一番マズイ作品なんですが、容赦なくいきますので。


その、時系列を遡っていく、という“トリック”は、ホントに面白かったですね。
で、この作品のポイントは、その“トリック”が1つだけじゃないところなんですね。

1つ目は、その、時系列を逆行していく、という構成。語り口の斬新さ、というか、語り方のトリック。
2つ目は、記憶が無くなってしまう、という設定。
3つ目が、その、記憶が無くなってしまうという状態で、復讐という目的を遂げようとしていること。つまり、動機。

で、この三つに加えて、“過去の記憶”という形で、ある老夫婦の話が語られる、と。
最後の“過去のエピソード”がミソで、主人公に気持ちや状況や苦悩を語らせるのに、上手にハマってるんです。

シナリオで賞を獲ったということですが、ホントにそれは納得。
ディテールも、着てる服と乗ってる車のアレとか、良く出来てるなぁ、なんて思ったし。



ただ。
なんていうか、その、シナリオ上のトリックの“謎解き”で終わってしまうんです。ラストも。「あ~、そうやって、そうなってこうなって、それでこうなるのね」で、終わる、というか。

時系列を遡るので、一番最初に“オチ”が掲示されるんですね。
で、俺としては、最後に、その最初に掲示された“オチ”を引っくり返して欲しかった、というか。
結局、ストーリーの“動機”が、「記憶がないからワケ分からなくなってる」ってだけになってるんですよ。

まぁ、ベタだけど、記憶がちょっとだけでも戻ったり、全く違う人間として(つまり、違う“記憶”を手に入れて)生きる、とか、そういう結末になっても良かったんじゃないか、と。

回収されてない伏線もあるような気もするし(あの女性のキャラクター)。


あと、ちょっとほじくり過ぎかもしれないんだけど、「困ったらポラロイド写真を見る」とか、なんか妙にしっかりしてるんです。
“過去の記憶”で、「老人は演技している」ということを延々語るので、逆に俺は主人公が演技なのか、とか、ヘンな勘ぐりをしてしまったり。さすがにそれは、演出的なミスリードではないと思うので。

ま、でも、もう一回ぐらい観たい作品ではあります。
うん。ホントに上手なシナリオ。