2009年3月16日月曜日

「パニックルーム」を観る

ミッドナイトアートシアターで、デヴィッド・フィンチャー監督、ジョディ・フォスター主演の「パニック・ルーム」を観る。

ちょっと遅れましたが、感想でっす。


ま、ハリウッドを代表する監督になりつつある、という、D・フィンチャーですが、ワリとこの人って、当たり外れがあると思うんですね。(いや、もちろん、どんな監督さんにもあると思うんですけど)

で、この作品は、外れ。
面白くて、いい作品だとは思うんですが、いわゆる“映像派”としてのフィンチャー節っていうのは、イマイチかなぁ、と。もっと振り切って欲しい、というか。


逆に、その“映像美”じゃない部分は、結構面白かったりするんですよね。
キャストも、J・フォスターはもちろんなんだけど、「黒い鶴瓶」フォレスト・ウィテカーは相変わらずの名優っぷりだし、もうひとり、覆面(目だし帽、本来はスキー用の、眼の部分だけ出ているニットキャップ)をずっと被ってる犯人役のヤツがいて、こいつが超イイ。


妙に足が細くて肩幅が広くて、みたいな、姿勢が猫背っていうのも含めて、体型だけで変な存在感があったりして。
こいつのキャラは、ホントにいいです。

あとはストーリーの展開ですよねぇ。
家一軒、避難用の部屋一つ、登場人物も親子2人(父親も少しだけ登場)と、3人組の犯人たち、というだけで、いかにスリリングに話を引っ張っていくか、と。
それはもちろん、シナリオの強さという部分なワケで。

実は冒頭の、背景説明に当たる部分が結構長くて、ちょっとイライラするんですけど、それはしょうがないですね。この導入部分は、「この作品は、いまから100分間、このスタイルでいきますよ」という宣言になってる気がします。


ポイントは、犯人たちの関係性ですね。上下関係というのがあって、それが、小さなトピックをきっかけに、動くんですけど、これが結構面白い。
事前の情報の誤り、持っている武器、それぞれの担当と特技、動機とやる気、アイデア、などなど。こちらの“心理劇”の主役は、もちろんF・ウィテカーです。


というぐらいですかねぇ。ここまで書いてきて、ハタと手が止まってしまいました。
娘さんの糖尿病というのは、ま、ありがちっちゃありがちですからね。特にアメリカ映画には、こういう設定が多い気がします。(グーニーズには喘息持ちのヤツがいましたよね)


エンディングもいまいち。

あ、でも、社会の格差についての台詞をF・ウィテカーが言うんですが、それは良かったです。
犯罪の動機としての「社会の格差」っていうを、ちゃんと織り込んでいる、ということで。

階層の、アッパークラスと底辺の人間が交わる“現場”のひとつが、実は犯罪(クライム・シーン)なのだ、という。

うん。
そんな感じでした。


2009年3月11日水曜日

バザン曰く「映画とは何か」

新聞に、アンドレ・バザンというフランスの映画批評家についてのコラムが載っていたので、ご紹介。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。


バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。


映画は写真から成り立っているという単純な事実に、バザンは批評の基盤を据えた。人の手の加わらない、対象物の機械的再現が映画を支えている。
そこから、現実をまるごと捉える「リアリズム」こそが映画本来の目的であるとする主張が生まれる。

同時代のルノワールやロッセリーニ、ウェルズらの作品から、バザンはあらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない「曖昧」な現実を、そのまま凝視する姿勢を学んだ。彼らの作品の「深い画面」と「長回し撮影」に、世界と対峙する映画の倫理を見出したのである。
そんな彼が、安易な編集技術や政治的メッセージへのもたれかかりを許さなかったのは当然だろう。

一徹な理想を抱きながら、「不純」さにこそ映画の豊かさを認めたところに、批評家としての度量の大きさがあった。
小説や絵画といった隣接領域との連関を重視し、テレビの登場も肯定的に捉えようとした。探検映画や児童映画、特撮やアニメーションまでもが、動物と子供をこなよく愛したこの批評家の視野には、くっきりと収まっていた。

ロラン・バルトの写真論や、ジル・ドゥルーズの映画論に、バザンの影響はたやすく見て取れる。
それ以上に昨今の、中国語圏を中心とするアジア映画の新たな展開は、バザン的な映画が鮮烈な輝きを放ち続けていることの何よりの証しだ。
文化革命後、イデオロギーを脱した思考を模索する中国文化人たちは、『映画とは何か』の中国語訳をむさぼり読んだという。

「現実を信じる」映画に希望を託したバザンの思考は、バーチャル映像に翻弄され続ける現代の我々にとって、貴重な反省と抵抗のよすがとなる。

「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。


「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。

それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。

分かりませんけどね。批評家じゃないんで。


しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。

バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。


2009年3月10日火曜日

「ミニミニ大作戦」を観る

金曜日のミッドナイト・アートシアターで観た「ミニミニ大作戦」の感想でっす。

普通にミニが好きなんで、良かったですね。


という感想では、一行で終わってしまうので、もう少しアレしないといけないんですが。


まず、ゴレンジャーで言うトコの赤レンジャー役の俳優が、イマイチなんですよねぇ。
ピンクレンジャーはシャーリーズ・セロンだし(超キレイ!)、適役はエドワード・ノートンだし、C・セロンの親父は名優ドナルド・サザーランドだし、ミドレンジャーはモス・デフだし、ということで、いい役者さんが揃ってるんだけど、猿顔でなんだかイモ演技のモサッとしたヤツが主役で、そこが最後までピンと来ない、という。
もうちょっとキリッとした、“リーダー”顔のヤツ連れてこいよ、と。作戦の立案を“担当”する役回りなんですけど、こいつが1番バカっぽい顔してんだよねぇ。


ただ、作品自体は、ちゃんとツボを抑えていて、面白かったりして。
ミニが、カワイイ外見とは裏腹に、かなりワイルドに疾走してて、結構それだけでも痛快感があったりして。

いや、普通に好きな作品です。


いわゆる“B級アクション”な感じなんだけど、それなりにお金かかってるし。ちょっとお色気もあるし。



この作品は、同名の作品のリメイクで、元の作品はイギリスで作られたモノで、そっちも観てみたい気になってます。
イギリス映画が、どういうカーアクションを作るのか。興味が湧きますね。
この作品のカーアクションは、普通の、LAが舞台ということもあって、いかにもアメリカ映画という感じの(上手ですけど)アレなんですけど。


ま、感想はこんな感じでしょうかね。
至極健全なアクション映画の良作、ということで。


すげー単純に、日本でもリメイクやればいいのにな。
東京を舞台にして。
面白いと思うけどね。

リメイクじゃなくても、いい感じにパクったりして。
東京の地下(非合法な世界の比喩じゃなくって、ストレートに“地面の下”という意味です)っていうのは、個人的にはかなりオイシいネタになるんじゃないか、なんて、ずっと前から思ってるんですよねぇ。


2009年3月9日月曜日

「ジャケット」を観る

土曜日の深夜にTBSでやってた「ジャケット」を観る。

“ジャケット”というのは、拘束着のことですね。
しかも、タイトルからは一切想像させない、タイムスリップねた。その拘束着がタイムマシンになってる、みたいな感じで。

と、書き出しは“イマイチ感”が出てますが、さにあらず、いい作品でした。

つーか、すげー良かった。


最後まで観たあとに、チラッとエグゼクティヴP(製作総指揮)の名前が出て、そこにジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグの名前があって、ちょっとビックリ。
2人が一枚噛んでたんですね。

ま、それはさておき。


湾岸戦争で記憶障害を負ってしまった若い男(若くないのか?)が主人公で、彼が、記憶障害ゆえに自分に被せられた濡れ衣の疑いを晴らすことができず、犯罪者を専門に収容している精神病院に入院することになる。
そこで、“マッドドクター”のヤバめな治療法の実験台にさせられてしまって、と。
ここまでが、かなり長い前置き。

ベトナム戦争が、いわゆるニューシネマ期の“作家”たちにテーマを与え、幾つもの傑作が(間接的に、あるいはそれは悲劇でもあるんだけど)そこから生まれたワケです。
で、この作品も、時代が変わって、湾岸戦争というトピックに対する、例えば反戦であるとか、そういうテーマの作品なのかな、とか想像したりもしたんですが、実はそうでもなく。

実は、ワリとシンプルなタイムスリップものでした。


誤解を恐れずに言えば、基本的には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と一緒ですから。

現在と未来を行き来して、未来で知ることが出来る情報を持って現在に帰って、現在の状況を良い方向に導くことで、暗かった未来を明るい未来に変える、と。


で。
この作品では、主人公が「あと何日かで死んでしまう」ということが、未来で主人公自身に明かされるワケです。
未来へ飛んでいった主人公が、そこで出会った人に、「あなたは死ぬ」と教えてもらう、と。
で、現在に戻って、あれやこれやがあるんですが、やっぱり主人公は死んでしまう。

ここがミソ。

それでも、未来は明るくなってる。

うまく言えないんですが、そこがマジで感動的なんですよ!


「自分が死ぬ」という運命は変えられない。それは受け入れる、と。
しかし、その前に、手紙を書いたり、人に会いに行ったり、ということをして、そして未来を変える。


その、変わった後の未来のシーンが、いいんですよねぇ。
同じダイナーから出てくるのに、前はそこのウェイトレスだった女性が、今は、病院勤務という“ちゃんとした職”に就いていて、そしてなにより、乗ってる車が全然違う。


去年、自分で書いたシナリオのテーマが「自己犠牲」だったんですけど、ちょっとそこら辺にも通じる感じがしちゃって、余計にグッと来たのもあって。



実は、シナリオとしては、あんまり上手く運ばれてなかったりするんですけどね。アラがあったり、適当だったり。
だいたい、どうしてタイムスリップするかも分からないし。

でも、そういうディティールはさておき、という力があるのも確かだな、と。
そう思いました。



というワケで、良作。収穫多し。
という作品でした。