2009年6月18日木曜日

CSI「誰も知らない存在」を観る

CSIシーズン6の、「誰も知らない存在」というエピソードを観る。


重厚な内容で、面白かった。

CSIの“無印”は、舞台がラスベガスってことも関係してると思うんだけど、人間が本来抱えている闇、というか、物凄いスケールの小さな“悪意”とか“弱み”とか“醜さ”とか、そういう部分がフレームアップされたエピソードが多い気がするんですね。

「NY」は、ニューヨークという世界一の大都市に飲み込まれちゃったりだとか、踏み潰されちゃったとか、あとは、上流階級と貧困層、とか、都市ならではの犯罪とか動機だとかが描かれてて、もちろんそっちも大好きなんですけど、ラスベガスのシリーズとは、ちょっとテイストが違ってて。

「マイアミ」は、これはまた全然違う雰囲気で、“楽園”のダークサイド、というか、麻薬シンジケートという巨大な敵である犯罪組織との戦いが描かれたりして、それはそれで、という感じで。


で。
今回のエピソード、原題は「Werewolves」という、これは、狼男のことですね。
さらに、複数形になってることもポイント。


事件は、ある匿名の通報電話があり、小さな家で、体毛が異常に濃い男性の死体が発見される、と。
それはなんと、銀製の弾丸で撃たれていた、という。

オープニングは、ホラーみたいなタッチで始まるんですね。電話ボックスで話している通報者の姿を映すんですけど、ちょっと怖い感じで。

で、被害者は、遺伝性の多毛症という病気だった、ということが説明されて、彼の周辺の人物の捜査が行われて、同時に、通報があった電話ボックスが発見されて、鑑識捜査もそこであって。
で、そこからも、体毛が発見されて。

被害者には、双子の妹がいる、ということが分かるんですね(これが、複数形の意味)。

被害者宅をもう一度捜索すると、なんと、リビングの一番奥の壁の向こうに、隠し部屋を発見するんです。女性捜査官(鑑識官?)が。
隠し部屋の中には、全身毛で覆われている、妹が居て。
彼女は、兄が殺された瞬間もそこにいて、殺されたあとも、ずっとその中に潜んでいたんです。

彼女は、その外見(狼男のように体毛で覆われている)から、ずっと部屋に閉じこもって生きてきてる、という設定で。
で、彼女は殺された被害者とは、双子の兄妹なワケですけど、当然、両親に付いても語られて。

父親は、双子が生まれてからすぐに、彼らを捨てて家を出て行ってしまい、母親はある時、交通事故にあった、という嘘をついて、家を出て行く。
残された兄妹は、2人だけで生きてきたんだけど、妹は、その存在を周囲にも知られてなかったんですね。多毛症の症状が比較的軽い兄は、ワリと日常生活を普通に営んできたんだけど、ずっと妹を家の中に匿ってて。

で、結局犯人は、被害者の婚約者の兄、という人物で、彼は、被害者の“親友”でもあって。
彼が自分の妹を被害者に紹介した、ということになってて。

しかし、その彼が、自分で“銀の弾丸”を自作して、それで“親友”の胸を撃った、と。


ポイントは、女性の捜査官が2人登場してくるんですけど、彼女たちは2人とも、見事な金髪なんですね。
これは、敢えて、キャストの中の、金髪の2人をシナリオ上でピックアップして並べてるんです。(黒髪の女性捜査官もいるんですけど、彼女は今回はあまり活躍しません)
妹との対比で。

そして、被害者の婚約者、というのも、同じような、きれいなブロンズで。


そういう諸々の仕掛けが、妹の悲劇性を高めている、という。

で、捜査によって、母親は居場所が明かされ、事情が説明される。
そしてラストで、一度は捨てた妹のもとに、母親がやってくるんですね。



う~ん、と。

長々とストーリーを説明してしまいましたが。



なんつーか…。


導入は、オカルチックな雰囲気なんですよ。
で、中盤は、いつもの“科学捜査班”で、いわゆる“科学捜査”が行われる。狼男のような外見も、「それは遺伝性の病気である」という説明がなされて、それで、最初のオカルト・ホラーテイストが否定されて。

で、終盤で、“動機”や背景が説明されて、人間の悪意や弱さや身勝手さや、そういうモノが殺人を生んだのだ、みたいな謎解きがあって。
ここでは、科学的・合理的な“理屈”が、人間の“情念”みたいなのを暴く、みたいになってるんですね。
同時に、これはシリーズに通低するテーマなんだけど、 “理屈”はしかし、“情念”みたいなのを止めることは出来ない、という。暴いたり、対抗したりは出来るんだけど、人を動かすこと自体は、“理屈”(論理)では出来ない。

基本的に、この「出来ない」という部分のほろ苦さが、作品の奥行きになってるんですけど、ここでは、最後に母親が帰ってくるんです。
つまり、ここで人間性の回復が描かれている。

そこは、捜査官たちには関係ない部分で、母親の自発的に、自らの罪を悔い、過ちを回復しようとしている、ということが語られていて。


これは、なかなかないですよねぇ。
非常に優れたシナリオじゃないかな、と。

そう思ったんです。



いかがでしょうか?

2009年6月17日水曜日

「ママの遺したラヴソング」を観る

「バリ・シネ」で、スカーレット・ヨハンソンとジョン・トラボルタが主演の、「ママの遺したラヴソング」を観る。


書き忘れてた感想です。


実は、観ててあんまり面白い作品じゃなかったんですよね。
個人的には、すげー嫌いなタイプの作品。

だけど、ラス前の「実は、2人は~」というのが判明してからの、2人の会話のシーンがすげー良くって、「あ、いいかも」という感じで。


彼女は、母親の存在やその愛を知らずに育って、まぁ、それで“不良”になっちゃった、という役を演じてるんですね。18歳とか、そういう年齢の役。まだ高校生で。

で、ラス前の2人の会話で、彼女はその欠落感を埋めることになるんですが、その会話の感じが、すげー良かった、と。
“幼い頃の記憶”とか、そういうキーワードで。

「母親に愛されていた自分」の記憶、というのを、自分で色々作ってた(想像していた)、という。
そういう“寂しさ”を分かってくれ、と。
だけど、その“捏造した記憶#”も、まるっきり虚構でもなくって、初めてのクラスメートとのデートでライブハウスに行ったときに、チラッと、似たような記憶が浮かび上がってきたりして。


この、「アイデンティティー」は記憶によって構築されているのだ、というのは、実は個人的に、結構気に入ってる題材でもあって(逆に、よく使われる題材でもあるんですけどね)。

で、ま、18歳の女の子が発する言葉としては、かなりのリアリティーがある、というか、彼女なりの必死に叫びなんだろうな、という、説得力を感じたワケです。

あのセリフは、なかなか書けません。



それから、もう一つ気になったのは、河の堤防を使ったショットですね。
この作品の舞台は、多分、カトリーナで沈没しちゃったのと同じ地帯なんです。
そういう背景がこっちにあるので、その、堤防の近くに住むホワイト・トラッシュたち、というのには、結構リアリティーを感じたんですけど、それはさておき。

堤防の手前の風景を撮る時に、堤防越しに、河を進む船の煙突が見えてたりするんですね。
これは結構面白くって。
土手の上を歩くショットもあるんですけど、そのショットでは、河の対岸に、大きな工場とかが映ってるんですね。
で、土手を、降りてくると、そういうのが見えなくなる。
見えなくなって、そこには、酔っ払いたちが車座になって歌を歌ったりしている場所(キャンピングカーのトレーラーみたいなの)があって。
そこが「掃き溜め」である、ということが、まぁ、意図的ではないのかもしれないんですけど、なにげに描かれてたりして。

河を進む船がある、というのは、「そこには働いている人がいる」という表現としてもあり得るワケですよね。
それを、昼間から飲んだくれている人たちとを、同時に描写する、みたいな。

ま、そんな意図はなかったかもしれませんけどね。



あ、それから、この作品でも、トラボルタは踊ってます。
ただし、その後に、かなりキツいシーンがあって、そこでもセリフは、切れ味があって良かった。


そう考えると、セリフの良さを味わう作品なのかもしれませんね。

作品自体は、すげー低予算なんですけど、でも、セリフには、そんなこと関係ないですからね。



というワケで、そういう作品でした、と。


2009年6月11日木曜日

なんかグッときたので

新聞に、トルコ出身の(クラシック畑の)ピアニストだという、ファジル・サイさんという方のインタビューが載ってまして。

まぁ、映画とはあんまり関係のない内容かもしれませんが、なんか、なんとなくグッときたので、ご紹介。


クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人任せになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3,4分で映画のサウンドトラックのように「物語」を作らないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時、キース・ジャレットのように(自分の曲を)演奏したはずだ。

作曲は常に「進化」しなければならない、という観念がある。
80年代から90年代、自分が10代から20代の頃、多くの若い作曲家たちは、自問自答する形で「次は何だ」と考えた。
ある意味、(作曲の)技術的な発展という意味では「歴史の終わり」だったのだ。
作曲とは「湧き出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーションの高まりを伴わないのならば、それは音楽ではないと思う。


「技術的な発展に、エモーションが伴ってなければ、それは音楽ではないと思う」と。


う~ん。

グッときた感じ。


エモーションね。
この人は、「エモーションの高まり」こそが「内なる声」であり、「個性」だ、ということみたいだけど。


にゃるほどねぇ。
いい言葉だ。

2009年6月5日金曜日

「逃亡地帯」を観る

またしても午後のロードショーで(今週は全部観ちった!)、アーサー・ペン監督の「逃亡地帯」を観る。 いやぁ、傑作。 これはぶっちゃけ、DVDを買いたいです。手元に置いておいて、また観直したい。 群像劇ってことで、主演はネームバリューから言ってマーロン・ブランドってことだと思うんですけど、逃亡犯役のロバート・レッドフォードも輝きを放ってるし、ジェーン・フォンダも出てるし、ということで、いま観ると何気にオールスターって感じ。 この作品は1966年に公開、ということで、アーサー師は翌年に、“ボニーとクライド”の逃避行劇「俺たちに明日はない」を、レッドフォードは3年後に、マーロン・ブランドではなくポール・ニューマンと組んで「明日に向かって撃て」で、国外逃亡を果たす、という。 (ちなみに、ジェーンの弟のピーターの「イージー・ライダー」も、この3年後の作品) 個人的には、「俺たちに~」と対になってる作品なのかなぁ、という感じ。 ボニーとクライドという、逃亡犯を描くのが「俺たちに~」なワケですが、この作品では、その逃亡犯側の内面(というか、動機とか個人史というか、要するに、キャラクターを深く掘り下げて描く、ということ)が殆ど語られてなくって、いわゆる“状況証拠”だけ、という感じで。 「ツイてなかったんだよ。俺の人生は」ってことぐらいしか本人も語りませんし。 この作品は、レッドフォードの脱獄犯が目指すホームタウン(故郷の小さな町)に、まるで遠隔操作のように引きこしてしまう“波風”を描いていて、ま、裏表になってる、ということですね。 で。作品の年代史的なポジションの話はこのくらいにして、作品本体の感想を。 まず、レッドフォードがひたすら逃げる姿と、それとは全然オーバーラップしないで、彼をのちに“迎え入れる”町の様子を描く、前半部分が凄い。 この町の様子っていうのが結構エグくて、退廃的なカントリータウン、という感じで、まぁ、現代性がある、と言うと言い方が変ですが、要するに“人間は全然変わってない”ってことなんですけど、そんな気持ちにもさせるエグ味があります。 まぁ、その、後世に語りかける、というのはアーサー師の意図するところではなくって、これは、逃げ続ける(ちなみに、ここでは直接的な追っ手の姿は描写されません。なので、レッドフォードは“見えない敵”から逃げているように見えます)レッドフォードの姿との対比が行われている、と。 退廃的な、自己満足的な、閉塞的な、そして閉鎖的な、町の様子と、その町の“アッパークラス”の生活用の様子、そしてアッパークラスの生活に嫉妬する“その下の階層”の愚痴も描かれ、そこにさらに、人種差別も描かれていて。 要するに、腐り切ってるワケですね。 で、脱獄犯のニュースによって、その“腐ってる部分”が炙り出されてくる、という。 この感じは、ホントにキケン。 銀行に美人の奥さんがやってきて、それは旦那が銀行に勤めてるからなんだけど、実は旦那の同僚と堂々と不倫してる関係でもあって、なんていうか、そういう“薄汚さ”というか、“腐ってる人間”を描く、と。真正面から。 ジェーン・フォンダには恋人がいて、彼は地元で一番の富豪で名士(銀行の頭取でもあるんだけど)のジュニアで、後継者として育てられているんだけど、彼にも妻がいて。 その妻とは、“契約を結んでいる”上っ面の仮面夫婦で、そういうことに気付いてないのは、親父の富豪だけで、とか。 その中に、保安官として、マーロン・ブランドがいるんですね。 アメリカの司法機関の中で、この保安官制度っていうのは少し面白くって(というより、日本にはない独特のシステムで)、要するに、かなり独立した存在だ、ということなんですね。 “自分の城”を構えている感じ。 あまり「組織の人間」ってことを感じさせない存在にしてて、で、それがこの作品では欠かせない要素になってて。 つまり、極めてインディペンデントな存在として描かれている。 また、マーロン・ブランドがハマってるんですよね。これが。 堂々と黒人を庇う、とか、自分なりの“正義”の論理、倫理観、基準でもって、脱獄犯とも向かい合おうとする、とか、そういう人物。 しかもその結果、いわゆる“町の人間”たちに私刑(リンチ)をくらったりしてしまう、という。 このエグ味! デヴィッド・フィンチャーとかブライアン・シンガーとかにリメイクして欲しいっス。現代に置き換えて。 全然成立しちゃうでしょう。 人間の暗部なんて、全然変わってないのだ、ということで。 そして、衝撃のラスト。 これはホントにびっくり。 あ、あと、セリフがクールだったなぁ。 「店に戻って、ウィスキーをもっと飲んで、他人の女房と寝ろよ」 「今言ったことですよ。あなたは恩恵を押し付けて、感謝されることを強要している」 「俺が真実とか正義とかいうやつを信じてると思うのか」 などなど。 もちろん、訳語の関係もあるんでしょうけどね。 うん。 是非とも、もう一度観たい作品です。 

2009年6月2日火曜日

「スーパーコップ90」を観る

午後のロードショーで(最近こればっかりだな…)、「スーパーコップ90」を観る。

タイトルからして、B級どころかC級以下な雰囲気が満点ですが、こういうのを日常的に消費できるのも、午後のロードショーのいいトコで。
最近、午後のロードショーばっかりですが。


この作品は、結構面白かった。
原題は「Rainbow Drive」ってことで、これは通りの名前ですね。「マルホランド・ドライブ」とおんなじ。
舞台はLA。

なんていうか、エルロイみたいだな、と。
エルロイの短編に出てきそうな話です。年代が全然違うんだけど。


ちなみに、調べたら原作はロデリック・ソープという人で、この人はなんと、「ダイ・ハード」の原作を書いてる人らしい。


主人公は刑事(殺人課)で、恋人(旦那持ち)との情事の間に、妙な感じで殺人事件に巻き込まれて、という冒頭からして、もういかにもエルロイっぽいし。


警察組織の、腐敗しているトップ周辺(もちろん、そういう場合、組織全体も半分以上腐ってるワケですが)、裏家業に手を染めている地元の企業化(つまり、半分マフィア)。
で、この両者が繋がってて。

で。組織の末端の1人である主人公は、真相を探ろうと動き始めるんだけど、当然、組織のトップ周辺から圧力がかかる。
主人公の同僚たちは、“上からの圧力”を理由に、「俺だって気持ちは同じだけど、だけど…」という具合。
その中で、事情を知っていた、親友でもあった同僚が殺されてしまい、その復讐という、新しい動機が掲示されて…。

その同僚の奥さんに会いに行く、同僚の家の前のシーンは、結構クールでしたね。
ワンカットの画なんですけど。
家の前の道路の歩道から、玄関に向かって歩いていって、呼び鈴を鳴らして(ノックだったかな?)、寝巻き姿の奥さんが出てくるんだけど、それは、自分の旦那が帰ってきたと思って玄関に出てくるんですね。
だけど、そこに立ってるのは、自分の旦那じゃなくって、その同僚で。
で、何も言わないで、そこに同僚が悲しい顔をして立ってるだけで、奥さんは自分の旦那が死んでしまったことを悟るワケです。
ここは、良かった。

で、その同僚は、過去に“事情”を知ってしまった為に、ある筋から札束を受け取っているんですね。
で、その札束が、ガレージに丸まる手付かずで残してあって。
それは、その同僚の、カネを受け取っていいものかどうか、という「良心の呵責」のことなワケで。
そのカネをどうするか、という、奥さんと主人公の会話も、グッとくる感じで。
この奥さんは、この2シーンだけしか出てこないんですけど。でも、それだけで、しっかりと、主人公に“動機”を与えてるワケです。
この辺は、巧い。


で、その同僚と親しかった、黒人の、もう1人の同僚っていうが出てきて。
この、仲間との心の交わし方の描き方っていうのは、エルロイとは全然違いますね。

まぁ、そんなこんなで、身内の警察組織と地元の犯罪組織を相手に、主人公が孤独に戦う、と。

ラストも良くって、FBIが居た、というオチで、この、司法組織同士の対立がある、というのもエルロイっぽい。
冒頭の事件の、市警本部と分署の殺人課との縄張り争いもそうだし、FBIとかDEAなんかの捜査と、主人公が果たそうとする“私刑”との目的の対立があって。


あ、あと、この時代の作品で、「留守番電話」が凄い出て来るんだよねぇ。
多分、この時代のハイテクってことだと思うんだけど。
盗聴器とか。

今だと携帯とかメールとか、そんな感覚なんでしょう、きっと。


それから、主人公の刑事役の俳優さんは、スリムでシャープで、カッコいいです。
「CSI:マイアミ」のカルーソさんも出てます。若い。



というワケで、こういうB級作品は、大好きですな。