2010年1月16日土曜日
「白いカラス」を観た
月曜日の深夜に日テレで放送していた「白いカラス」の感想でっす。
主演はアンソニー・ホプキンズと二コール・キッドマン。監督は、大好きな「クレイマー、クレイマー」のロバート・ベントン。
2003年の作品なんですが、作品の時代設定は1998年とずばり指定されています。
理由は、作中で、クリントン大統領(当時)のルインスキー・スキャンダルについて語られているから。
作品自体は、ちょっと不思議な重層構造になっていて、まず基本的なプロットのラインが、主演の2人の出会いから始まるラブストーリー。
アンソニー・ホプキンズが演じるのは、文学かなんかの大学教授で、“ユダヤ人としては初”の学部長を務めていたんだけど、黒人学生への差別発言をでっち上げられて、その“糾弾”への怒りで自ら仕事を辞める、というところが話の始まり。
で、二コール・キッドマンと出会う、と。
彼女の役は、幼い頃は裕福な暮らしをしていたんだけど、両親が離婚し、母親の再婚相手(継父)に“悪戯”(性的虐待)を受けたことから、家出をして、という“流転”の過去を持つ女。
自分の結婚相手からも暴力(DV)を受けていて、その男(エド・ハリス)から逃げている、と。ブルーカラーな仕事を三つ掛け持ちしている絶世の美女、という、まぁ、いわゆる「薄幸の美女」ですね。
この2人のストーリーが、基本のライン。
二つ目が、主人公と、森の中の小屋で“隠匿生活”をしている、ゲイリー・シニーズ(「CSI:NY」の主役の人です)演じるある作家との友情関係。
それから、ここが良く分かんないんだけど、その、クリントン大統領のスキャンダルに絡めた“言葉の正しさ”とか、そういうメッセージが微妙に語られるんですね。
主人公が“差別的発言”を糾弾される、というところに絡められてるんだけど、なんつーか、時代の空気感、ということなのか、やたら大統領のスキャンダルについての言及がある。
あんまりストーリーとは関係ないポイントで。
「ポリティカル・コレクト」とか、そういうセリフもあった気がするし(ちょっとうろ覚えです・・・)、まぁ、恐らく監督のメッセージだと思うんですが、そういうのが挟み込まれている。
で、最後の“レイヤー”が、主人公の過去。
主人公の生い立ち、というシークエンスがあり、「プリズンブレイク」の主役のあの役者が演じるんですが、このシークエンスも、ラブストーリーとは直接は関係ありません。
一応、このシークエンスを、シニーズの作家が掘り起こす、ということになってるんだけど、まぁ、ほぼ独立した形。
このシークエンスとラブストーリーが、なんつーか、どちらもいい感じなんですよねぇ。
よく出来た短編、というか。
この作品は特に、この過去のシークエンスの“ネタバレ”は避けたいので、これ以上は書かないでおこうと思うんですが、良いです。
この、主人公が抱えた“過去”と、「薄幸の美女」が抱えた“過去”。
2人が出会い、愛し合う“現在”。
う~ん。
「白いカラス」という邦題は、実はこの言い回しこそが「ポリティカル・コレクトネス」的にどうか、というのもあるんですが、なかなか上手いです。(ちなみに、原題は全然違って、「The Human Stain」というもの)
ほろ苦い結末も、個人的にはポイント高いですしね。
うん。
豪華キャストなんで、低予算ではないんでしょうけど、撮影自体はシンプルに、安価に行なわれているんだろう、という部分も含めて、なかなかの佳作ではないかなぁ、と。
ぜひお薦めです。
どうぞ。
2010年1月12日火曜日
コールドケース「列車」を観た
CSIと同じく、テレビ東京で放送している「コールドケース」の、「列車」という回が良かったので。
基本的に、この「コールドケース」はハズレがなくって、毎回面白いんですが、今回の「列車」は、まぁ、良かったです。
“列車”というのは、“列車の絵”という意味で、列車(アムトラック?)の切符に描かれた列車の絵、ということですね。
列車の絵を3歳の少年が覚えていて、それがきっかけで真犯人の逮捕(つまり、事件の解明)に繋がる、という。
ちなみに、この“コールドケース”というのは、「犯人逮捕に至らずに迷宮入りしてしまっている事件」という意味です。“コールド”っていうのは、冷やしておく、とか、そういう意味ですね。
そういう事件の“再捜査”をする、というのが「コールドケース」という番組の特徴。
で、常に“過去”が描かれるワケですね。
ここが個人的に面白くって、過去と現在の2つのストーリーのラインがあるんです。常に。
で。
今回のストーリーは、過去の未解決殺人事件の被害者が、さらに時間を遡った過去では、ある事件の加害者だった、という。
逆転してるんですね。
この構造が良かった。
ある事件というのは、幼児誘拐事件で、その、誘拐された幼児、というのが、現在ではティーンネイジャーになってて(列車の絵を覚えているのは、このティーンネイジャー)、で、かなりの不良少年になってしまってるんですね。
この、不良少年と捜査陣との心の交流、みたいなのがもう一つ裏ストーリーとしてあって。
未解決だった事件の捜査のプロットが、過去の誘拐事件(当然、これも未解決)と、現在の、ティーンネイジャーが抱える愛情不全に因る(と、思われる)トラブルのプロットも兼ねている、という構造になってて。
三つが同時に進行していく。
これは、こういう構造にする、という所のアイデアさえ固まれば、あとは自然と出来上がってくるストーリーだとは思うんですが、その、最初の部分はねぇ。
凄いアイデアだと思うんです。
凄いな、と。
あと、「コールドケース」は、主人公の女性刑事が好きなんですよねぇ。
フェミニンなんだけど仕事もやりますよ、という。
スーツ着て、男の同僚たちに混じって(従えて)バリバリ仕事するよ、と。
でも、そんなに肩肘張ってるって感じでもなく。
そのスーツに、髪を無造作っぽく後ろでギュッとまとめてる髪型とか、かなりポイント高いですよ。マジで。
なかなかこういう存在感っていうのは作れないですよねぇ。
うん。
毎週、かなり遅い時間の放送なんですけどね。
好きです。
基本的に、この「コールドケース」はハズレがなくって、毎回面白いんですが、今回の「列車」は、まぁ、良かったです。
“列車”というのは、“列車の絵”という意味で、列車(アムトラック?)の切符に描かれた列車の絵、ということですね。
列車の絵を3歳の少年が覚えていて、それがきっかけで真犯人の逮捕(つまり、事件の解明)に繋がる、という。
ちなみに、この“コールドケース”というのは、「犯人逮捕に至らずに迷宮入りしてしまっている事件」という意味です。“コールド”っていうのは、冷やしておく、とか、そういう意味ですね。
そういう事件の“再捜査”をする、というのが「コールドケース」という番組の特徴。
で、常に“過去”が描かれるワケですね。
ここが個人的に面白くって、過去と現在の2つのストーリーのラインがあるんです。常に。
で。
今回のストーリーは、過去の未解決殺人事件の被害者が、さらに時間を遡った過去では、ある事件の加害者だった、という。
逆転してるんですね。
この構造が良かった。
ある事件というのは、幼児誘拐事件で、その、誘拐された幼児、というのが、現在ではティーンネイジャーになってて(列車の絵を覚えているのは、このティーンネイジャー)、で、かなりの不良少年になってしまってるんですね。
この、不良少年と捜査陣との心の交流、みたいなのがもう一つ裏ストーリーとしてあって。
未解決だった事件の捜査のプロットが、過去の誘拐事件(当然、これも未解決)と、現在の、ティーンネイジャーが抱える愛情不全に因る(と、思われる)トラブルのプロットも兼ねている、という構造になってて。
三つが同時に進行していく。
これは、こういう構造にする、という所のアイデアさえ固まれば、あとは自然と出来上がってくるストーリーだとは思うんですが、その、最初の部分はねぇ。
凄いアイデアだと思うんです。
凄いな、と。
あと、「コールドケース」は、主人公の女性刑事が好きなんですよねぇ。
フェミニンなんだけど仕事もやりますよ、という。
スーツ着て、男の同僚たちに混じって(従えて)バリバリ仕事するよ、と。
でも、そんなに肩肘張ってるって感じでもなく。
そのスーツに、髪を無造作っぽく後ろでギュッとまとめてる髪型とか、かなりポイント高いですよ。マジで。
なかなかこういう存在感っていうのは作れないですよねぇ。
うん。
毎週、かなり遅い時間の放送なんですけどね。
好きです。
2010年1月11日月曜日
「アンダーカバー」を観る
こちらも「去年観たかったんだけどグズグズしてたら見逃した」一本、ホアキン・フェニックス主演の「アンダーカバー」を観る。
“去年”というより、おととしですかねぇ。去年のお正月の前の年末にやってた作品ですから。
原題は「We own the night」。意味は、ざっくり意訳しちゃうと「俺たちの夜」とか、そんな意味でしょうかね。「私たちは夜を手にした」って意味ですけど。
「アンダーカバー」という邦題はダメです。作品のテーマは“We”という単語に含まれているので、そこを外しちゃったらアウト。
ま、それはさておき。
いい作品でした。
いきなり気になったのが、音楽の使い方。舞台が80年代のニューヨーク(ブルックリン)ということで、80sバリバリのディスコサウンド満載。
まず、主人公がクラブの支配人なので、雰囲気にもマッチしてて、良かったです。こういう使い方もあるんだなぁ、と。
「アメリカンギャングスター」は、この作品よりもちょうどひと世代前という感じで、ソウル/ファンクで推す、というのがばっちりだったんですが、時代に合わせて曲だって変わる、と。
いい雰囲気を作ってます。時代感を、ね。
で。
作品は、警官一家に生まれた次男坊が、という設定。
親父や“良い子”だった兄とは対照的に、バーテンからクラブの支配人、という、“夜の商売”コースを歩んで、プエルトリコ系の激マブの彼女と付き合って、という役を、ホアキン・フェニックス。
いや、このキャスティングがヤバいです。
ホアキンは、クレジットによるとプロデューサーも兼任してるってことになってて、まぁ、これは受け手の勝手な憶測ですが、「ホアキンの兄」と言えば、なんつってもリバー・フェニックスでしょ、と。
兄と弟の物語、ですから。
作中でも、兄と同じ道を歩むようになる、という姿が描かれるんで。
やっぱねー。
いろいろ想像はしちゃいますよねー。思い入れがあるんだろうなぁ、とか。
まぁ、そういうことを抜きにしても、素晴らしい作品です。
ストーリーに戻ると、兄と弟と、父親。
父親のロバート・デュバルがかなりの存在感で、基本的にはこの3人の物語、ということですね。
親父は、兄も所属する署の署長という、かなり偉い役職にある人で、この親父が、職務と父親としての立場で悩むシークエンスは、かなり良いです。
警官の兄と、そうじゃない弟に対して、ちょっと接し方が違ったりして。
この、かなりセンシティヴなシークエンスを盛り込めるかどうか、書けるかどうか、撮れるかどうか、というのが、この手のジャンルの作品が“薄っぺら”になるかどうかの境目だと思うし、まぁ、この作品にはそういう“奥行き”がある、というか。
あと、エバ・メンデス(超美人! 大好きです)演じる、ホアキンの恋人が、彼らの家族の間の絆からちょっと弾き出される、みたいになるんですね。
そこら辺の描写も良い。
彼女からみたら「遠くへ行ってしまう」という、そういう感覚。「殺されちゃうじゃない」とか「ママに会いたい」とか、そういうことをセリフとして言い続けるワケですが、心理としては「私の彼が遠くへ行ってしまう」と。
ちゃんと、そういう感情を抱えているのだ、という解釈が出来るようなカットが挟み込まれていて、彼女の哀しそうな表情も含めて、印象的でした。
「あなたの家族に嫌われても平気よ」という、結構素敵なセリフが最初の方にあるんですけど、この“家族”こそが、そもそも作品のテーマなので。
あとは、なんといってもカーチェイスのシーン。
高架下の道路、という、「フレンチコネクション」への挑戦状でもある、恐らくかなり意欲的なシーンだと思うんですが、これは相当いいです。
映画史におけるカーチェイスの名場面、というのを、更新したんじゃないか、と。
雨の日。
主人公の主観。
敵がはっきり認識されない。
静寂。
などなど。
このカーチェイスシーンを観るためだけにお金を払っても良いです。
時間的にはホントに短い時間なんですが、インパクトは大きい。
あ。
あと、これは作品全般に言えることなんですが、編集の“間”が巧いと思いました。
ややクラシカルなタイミング、という言い方が出来ると思うんですが、独特の繋ぎ方というか、フェイドアウトの間も独特で、面白かった。
これは、意図的なものなのか、あるいは逆に、「編集してみたらなんだかスムーズに繋げられなくって、しょうがないからぎこちなさを逆手にとった」ということもあり得ると思うんですけど。
結果的には、まぁ、好き嫌いはあるとは思いますが、個人的には良いな、と。
ちなみに、地理的なアレと、ロシア系のコミュニティを舞台にしている、ということで、「リトル・オデッサ」と似てるなぁ、と思ってたら、同じ監督さんでした。ジェイムズ・グレイ。
この「リトル・オデッサ」も、兄と弟の物語。
というワケで、「アンダーカバー」は、ディテールも含めて、何度でも観たい作品でした。
お薦め!
2010年1月8日金曜日
「フェイクシティ」を観る
エルロイつながりってことで、キアヌ・リーブス主演の「フェイクシティ ある男のルール」を観る。
去年の「観たかったんだけどグズグズしてるうちに公開期間が終わってしまっていた」作品のひとつ、です。
エルロイは、原案というか、脚本に参加してるってことで、クレジットにも3人いるライターの筆頭に名前が出ています。
原題は「Street Kings」。
複数形なのがポイントだと思うんですが、いまいちしっくりしませんね。邦題はもっと分かんない。
で、結論を先に書いてしまうと、「う~ん」と。
イマイチ。
公開時にもそんなに評価されてないっぽかったんで、まぁ、それが正当な評価なのかもしれません。
ストーリーは、エルロイ信者にはお馴染みの、警察組織内部の抗争(権力闘争、出世争い)と、その組織の腐敗っぷりを背景にして、キアヌが演じる刑事がある事件を追っていく、と。
ちょっと中途半端なんですよねぇ。
最終的に“黒幕”と対決するワケで、一応ストーリーもそこに向かっていくんですが、登場人物が中途半端に少ないため、だいたい見当がついてしまう、というのと、“黒幕”の操作によって主人公が間違った方向に進んでいく、その間違った方向、というのがあんまりクリアじゃないんです。
エルロイの作品では、というより、サスペンスでは、誰が真犯人か、というのは分からないのが当然なんですが、「その代わりに誰が疑われているのか」みたいなのが、ちょっと中途半端なんですね。
その辺の、ミスリードのさせ方、というのが、微妙にズレてる気がします。
まったく何も分からないまま、どんどん被害者だけが増えていく(事件が進行していく、事態が深刻化していく)ということでもないんですね。
で、このさじ加減が、中途半端。
“エルロイ信者”には描写が物足りなくって、この手のエルロイ・ワールドに馴染みのない人には、なんかちょっと分かりにくいかも、という感じで。
話の筋は面白いんですけどねぇ。キャスティングとかも上手だし。
でもねー、という。
もうちょっと前フリの段階で“敵キャラ”をちゃんと描いた方が、最後の黒幕登場のところでもっとインパクト出せた思うんだけどなー、という。
せっかくコモン(Common)とかゲーム(The Game)とか、絶妙な配役が出来てるんだから、そこをもっと推せば良かったのに、と。(コモンもゲームも、有名なラッパーです。演技も上手でした)
まーでも、作品全体として全部ダメ、というワケでもなく、そこもなんだか中途半端な感じで。。。
でも、アレだね。
キアヌも老けたねぇ。
「スピード」では、LAPD(この作品と同じ)のSWAT隊員を演じてたワケですが。
もう15年も前だもんねぇ。
というワケで、個人的な期待度が高かっただけに「う~ん」という、そういう作品でした。
でわ。
2010年1月6日水曜日
ジェイムズ・エルロイの交錯する三つのプロット
さて、“プロット”という言葉から、昨日の続きのようですが、今日はちょっと違う内容です。
ジェイムズ・エルロイの「ビッグ・ノーウェア」の文庫本の解説が、興味深いテキストだったので、ご紹介。
書いているのは、法月綸太郎さんという方。
以下引用でっす。
***
エルロイは最近のインタビューの中で、「私は執筆前に綿密で長いアウトラインを書き出して、執筆中にそれをダイアグラムとして利用するんだ」と述べている。
複雑巧緻を極めたエルロイのプロット作法の秘訣は、この「ダイアグラム」という表現に集約されていると言っても過言ではない。
ちなみに、ここでいう「ダイアグラム」的なプロットは、複数の事件が同時多発的に進行するモジュラー形警察小説のスタイルと似ているが、エルロイの場合は複数の経路が最終的に一本に合流するという点で、明らかにそれとは一線を画しているようだ。
やはり3人の警官の三人称・複数視点を採用し、さらにマスコミ報道という視点を加えて、いっそう物語のスケールと複雑さを増した「LAコンフィデンシャル」を経由して、「ホワイト・ジャズ」では再び一人称の語りに戻るが、プロットの「ダイアグラム」性は文体にまで深く浸透して、そこで描かれる「おれ」の人物像は、複数の情報=欲望を束ねた多重回線ケーブルのような存在となっている。
こうした「複数の経路」に基づくプロット構成は、エルロイ自身が抱えていたトラウマの克服と恐らく無関係ではないだろう。
したがって、エルロイの小説がしばしば「悪夢のような」様相を呈するのも、当然のことなのだ。
***
エルロイをエルロイたらしめているプロット構成上の“個性”が、作家自身のトラウマの克服の体験と無関係でない、というのは、実は興味深い指摘。
テーマやキャラクターにだけでなく、プロット構成にすら「個人的な体験や記憶」が投影される、と。
逆説的に言うと、「作家は投影して良い」ということでもあるワケですが。
抑制する必要はないのだ、というか。
綸太郎さんは、こんな風にも書いています。
***
アミダくじのように平行する3本の線が衝突し、すれ違い、紆余曲折を経て一本に交わっていくプロセス、複数の経路をたどる人物と情報の流れそのものが、意外性に富んだ迷路のようなストーリーを形成していくわけである。
原理は非常に単純素朴なのだが、これがエルロイの手にかかると、絶大な効果が生まれる。3人の手持ち情報のすれ違いが、もどかしさとサスペンスをもたらし、それぞれの情報がある契機から一点に向かって収斂していく際の連鎖反応的・爆発的なカタルシスは凄まじい。
***
凄まじい、と。
まぁ、凄まじいんですけど。特に「ビッグ・ノーウェア」は。
というワケで、年明けから「LA四部作再読」という荒行を自らに課してしまった愚か者の俺でした。
でわ。
ジェイムズ・エルロイの「ビッグ・ノーウェア」の文庫本の解説が、興味深いテキストだったので、ご紹介。
書いているのは、法月綸太郎さんという方。
以下引用でっす。
***
エルロイは最近のインタビューの中で、「私は執筆前に綿密で長いアウトラインを書き出して、執筆中にそれをダイアグラムとして利用するんだ」と述べている。
複雑巧緻を極めたエルロイのプロット作法の秘訣は、この「ダイアグラム」という表現に集約されていると言っても過言ではない。
ちなみに、ここでいう「ダイアグラム」的なプロットは、複数の事件が同時多発的に進行するモジュラー形警察小説のスタイルと似ているが、エルロイの場合は複数の経路が最終的に一本に合流するという点で、明らかにそれとは一線を画しているようだ。
やはり3人の警官の三人称・複数視点を採用し、さらにマスコミ報道という視点を加えて、いっそう物語のスケールと複雑さを増した「LAコンフィデンシャル」を経由して、「ホワイト・ジャズ」では再び一人称の語りに戻るが、プロットの「ダイアグラム」性は文体にまで深く浸透して、そこで描かれる「おれ」の人物像は、複数の情報=欲望を束ねた多重回線ケーブルのような存在となっている。
こうした「複数の経路」に基づくプロット構成は、エルロイ自身が抱えていたトラウマの克服と恐らく無関係ではないだろう。
そもそも精神分析による無意識の発見は、「意識」という情報処理装置のバックグラウンドで稼動するより演算速度が速い(あるいは遅い)別の情報処理装置の存在の発見として解釈できる。私たちは一つの情報を、常に同時に複数の経路を通じて処理する。したがって演算結果も複数出てくる、それら諸結果が互いに矛盾し衝突することにより、ヒステリー症状や夢内容や失錯行為が生じる。
東浩紀「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」
したがって、エルロイの小説がしばしば「悪夢のような」様相を呈するのも、当然のことなのだ。
***
エルロイをエルロイたらしめているプロット構成上の“個性”が、作家自身のトラウマの克服の体験と無関係でない、というのは、実は興味深い指摘。
テーマやキャラクターにだけでなく、プロット構成にすら「個人的な体験や記憶」が投影される、と。
逆説的に言うと、「作家は投影して良い」ということでもあるワケですが。
抑制する必要はないのだ、というか。
綸太郎さんは、こんな風にも書いています。
***
アミダくじのように平行する3本の線が衝突し、すれ違い、紆余曲折を経て一本に交わっていくプロセス、複数の経路をたどる人物と情報の流れそのものが、意外性に富んだ迷路のようなストーリーを形成していくわけである。
原理は非常に単純素朴なのだが、これがエルロイの手にかかると、絶大な効果が生まれる。3人の手持ち情報のすれ違いが、もどかしさとサスペンスをもたらし、それぞれの情報がある契機から一点に向かって収斂していく際の連鎖反応的・爆発的なカタルシスは凄まじい。
***
凄まじい、と。
まぁ、凄まじいんですけど。特に「ビッグ・ノーウェア」は。
というワケで、年明けから「LA四部作再読」という荒行を自らに課してしまった愚か者の俺でした。
でわ。
2010年1月5日火曜日
平野啓一郎×東浩紀
雑誌に掲載されていた、平野啓一郎さんと東浩紀さんの対談。
「物語論」と「文学を巡る状況論」って感じですかね。その二つは繋がっていて、という。
結論としては、やや乱暴にまとめると「物語への回帰を恐れるな」という感じだと思います。
お2人は基本的に、ずっと“小説”についての話をしてるんですが、まぁ、俺が「自分のフィールド」と思っている(思い込んでいる?)のは“映画”なワケで、映画というジャンルに引き寄せての解釈を、ということで。
これは、作家と小説(作品)と読者という、ひとつのビジネスモデルについての話ですね。
「わけのわかんないもの」を作ってもダメですよ、と。売れませんよ、と。
編集者と作家の「2人だけのセカイ」で作品を作るんじゃなく、あと何人かの“視点”を導入して“複眼化”する、と。
作品を書く前の段階で。
これは不意打ち的に蓮實氏批判なワケで、まぁ、ちょっと複雑な気分ではあるんですが、“今では”ということでもあるので。
映画における“文体”とは、画面の質ということですよね。流れる時間に沿って(フロー)構築されていくものが“物語”だったり“物語の構造”であり、それとは対照的な関係にある、(ある意味では受け手によって切り取られる)あるシーン/カットの質感(色やらデザインやらなんやら)が、文体。
ということでいいのかな?
あ、もちろん、演技/演出のスタイルもそうですね。
無言劇だったら、その“無言”って部分が文体。モノクロ作品なら、その“モノクロ”って部分が文体。
「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」というのは、一般的には“文芸作品”とか“アート系”なんて呼ばれるものに多い、と。だいたいそういうことでいいと思います。ジャームッシュの「デッドマン」とか(もうかなり忘れちゃったけど)、分かりやすいアレだと、ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」とか「楽園の瑕」とか。この間見た「父、帰る」とか、ですね。
で、「プロットを前進させるパースペクティヴ」っていうのが、ストーリーをドライヴさせること。
主人公の男が、恋人の女の子に思いっきりビンタされる、という描写があるとします。
その、ビンタされた瞬間、という描写の次に、なにが(作家によって)語られるか。
主人公の心理、例えば「えー? なんでビンタなんかされるの? ていうか痛い! 冬にビンタは痛いよ! 思ったより力あるし。ていうかなんで怒ってんの? この間の浮気がバレたのか? なんでバレたんだ? 携帯のメールみたのか?」とか、まぁ、雑な喩えで申し訳ないんですが、こういうのが「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」。
ビンタの後に、例えば、主人公から走り去っていく女の子を描写するのが、「プロットを前進させるパースペクティヴ」。カットバックして、主人公の浮気現場を目撃したという回想が挿入されたり、走り去ってからまた走って戻ってきてとび蹴りをくらわして、そしてまた走り去っていく、そしてそれを主人公が追いかけていく、というような描写が続く、とか。
で、当然、この2つの“パースペクティヴ”というのは、常に共存してるワケですが、同時には存在しないワケです。映画なら同じ瞬間に存在する可能性もあると思いますが、小説では、基本的にはない。
一行目の次は絶対に二行目しかなく、二行目と三行目を読者は同時に読むことはできないからです。
従って、そのつど、どちらの“パースペクティヴ”を採用するか、というのが、作家の“感覚”やら“技量”やら、つまり“才能”だったりするワケですね。
で、「内面を掘り下げていくパースペクティヴ」をある程度放棄して、テキストをとにかく「プロットを前進させる」ことに費やす、という。平野さんの「個々の登場人物のキャラクターを類型化する~」という部分は、そういうことを言ってるワケですね。
ちなみに、この、類型化されたキャラクターというデータベースを参照しつつストーリーを前にドライヴさせる、ということは、東さんの「ゲーム的リアリズムの誕生」に詳しいです(俺もこれを読んで色々納得させられ、勉強させられました)。
“プロット”とは、言葉のまま、話の筋。ほぼ“ストーリー”という言葉とイコールだと思います。(ただし、「物語」という言葉には色々と大きな意味合いが付加されて使われることが多いので、ここでは、より狭義の言葉である“プロット”という言葉が使われているんだと思います)
ちょっと前にこのブログでも紹介した平野さんの講演録では、「ストーリーとはラーメンの麺である」と言っていましたが、ここでは「メロディーである」と。
音質が悪くてもメロディーが素晴らしければ、人はその音楽に耳を傾けてしまう、と。
う~ん。
なるほど。
しかし、「素晴らしいプロット」を紡ぐことができるかどうか。
それはまた別の問題なワケで。。。
そして、そこに苦心している俺、と。
う~ん。
苦しい。
「物語論」と「文学を巡る状況論」って感じですかね。その二つは繋がっていて、という。
結論としては、やや乱暴にまとめると「物語への回帰を恐れるな」という感じだと思います。
お2人は基本的に、ずっと“小説”についての話をしてるんですが、まぁ、俺が「自分のフィールド」と思っている(思い込んでいる?)のは“映画”なワケで、映画というジャンルに引き寄せての解釈を、ということで。
平野 大体、社会適応能力がない人が作家になるわけじゃないですか。だから、その人が好きなことを書いて、社会がウェルカムと言って受け入れてくれるはずがないんですよ。
で、これは僕が文学の現場で感じる実感ですが、出版社に入って文芸をやりたい人って、もちろん、文学好きの人が多いし、作家に対してある種のリスペクトがあるんだと思います。だから、作家がわけのわかんないものを書いた時に、編集者自身がそれを、良くも悪くも理解しようとする。その結果、作家と編集者の間で盛り上がっても、営業部では「いや、これはちょっと・・・」と言われ、で、書店でも「うーん」となって、結局、読者に持っていった時にもさっぱり評判にならないという。
今、演劇ではサイモン・マクバーニーにせよ野田秀樹さんにせよ、俳優たちとワークショップをやりながら作品を作っていくという方法がうまくいってますけど、作家もここぞという作品に取り組む時には、例えば2、3人の編集者と組んで、複数の視点から作品を検討して、社会化を図るというような手立てが講じられてもいいと思いますね。
これは、作家と小説(作品)と読者という、ひとつのビジネスモデルについての話ですね。
「わけのわかんないもの」を作ってもダメですよ、と。売れませんよ、と。
編集者と作家の「2人だけのセカイ」で作品を作るんじゃなく、あと何人かの“視点”を導入して“複眼化”する、と。
作品を書く前の段階で。
東 文体ほど誰も読んでないものはない。だからといって、文体の良さを捨てる必要はまったくない。ただ、文体の良さに時間を掛けることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体の良さこそが、それだけが我々の売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、今ではそれは自滅のロジックです。
これは不意打ち的に蓮實氏批判なワケで、まぁ、ちょっと複雑な気分ではあるんですが、“今では”ということでもあるので。
映画における“文体”とは、画面の質ということですよね。流れる時間に沿って(フロー)構築されていくものが“物語”だったり“物語の構造”であり、それとは対照的な関係にある、(ある意味では受け手によって切り取られる)あるシーン/カットの質感(色やらデザインやらなんやら)が、文体。
ということでいいのかな?
あ、もちろん、演技/演出のスタイルもそうですね。
無言劇だったら、その“無言”って部分が文体。モノクロ作品なら、その“モノクロ”って部分が文体。
平野 小説の登場人物の話でいうと、彼についての関連性が分かりづらい情報が次々と与えられる時、読書体験が豊富な人は、それらにアクセントを付けながら、自分なりに、一つの人物像へと統合していけるかもしれないけど、なかなか難しいと思いますね。物語全体に関してもそうで、複雑多岐に亘る情報が書き込まれると、それらをリニアにつむいで、一本のプロットを描き出す能力が誰にでもあるわけではない。
そういう時に、登場人物の内面を奥に向かって複雑に掘り下げていくパースペクティヴと、プロットを前進させるパースペクティヴとは、互いに干渉し合ってしまう。片方が強まると片方が弱くなってしまうんだとしたら、個々の登場人物のキャラクターを類型化するというのは、小説の深さをある意味、外挿しつつページを前に進める工夫ということになるんだと思います。さもなくば、前進するプロットのラインを物凄く濃くしないといけない。
「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」というのは、一般的には“文芸作品”とか“アート系”なんて呼ばれるものに多い、と。だいたいそういうことでいいと思います。ジャームッシュの「デッドマン」とか(もうかなり忘れちゃったけど)、分かりやすいアレだと、ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」とか「楽園の瑕」とか。この間見た「父、帰る」とか、ですね。
で、「プロットを前進させるパースペクティヴ」っていうのが、ストーリーをドライヴさせること。
主人公の男が、恋人の女の子に思いっきりビンタされる、という描写があるとします。
その、ビンタされた瞬間、という描写の次に、なにが(作家によって)語られるか。
主人公の心理、例えば「えー? なんでビンタなんかされるの? ていうか痛い! 冬にビンタは痛いよ! 思ったより力あるし。ていうかなんで怒ってんの? この間の浮気がバレたのか? なんでバレたんだ? 携帯のメールみたのか?」とか、まぁ、雑な喩えで申し訳ないんですが、こういうのが「内面を奥に向かって掘り下げていくパースペクティヴ」。
ビンタの後に、例えば、主人公から走り去っていく女の子を描写するのが、「プロットを前進させるパースペクティヴ」。カットバックして、主人公の浮気現場を目撃したという回想が挿入されたり、走り去ってからまた走って戻ってきてとび蹴りをくらわして、そしてまた走り去っていく、そしてそれを主人公が追いかけていく、というような描写が続く、とか。
で、当然、この2つの“パースペクティヴ”というのは、常に共存してるワケですが、同時には存在しないワケです。映画なら同じ瞬間に存在する可能性もあると思いますが、小説では、基本的にはない。
一行目の次は絶対に二行目しかなく、二行目と三行目を読者は同時に読むことはできないからです。
従って、そのつど、どちらの“パースペクティヴ”を採用するか、というのが、作家の“感覚”やら“技量”やら、つまり“才能”だったりするワケですね。
で、「内面を掘り下げていくパースペクティヴ」をある程度放棄して、テキストをとにかく「プロットを前進させる」ことに費やす、という。平野さんの「個々の登場人物のキャラクターを類型化する~」という部分は、そういうことを言ってるワケですね。
ちなみに、この、類型化されたキャラクターというデータベースを参照しつつストーリーを前にドライヴさせる、ということは、東さんの「ゲーム的リアリズムの誕生」に詳しいです(俺もこれを読んで色々納得させられ、勉強させられました)。
平野 小説を読ませる一番強い力って、やっぱり「知りたい」っていう欲求だと思うんです。ただ、行き先が提示されてないバスに乗る人はいなくて、やっぱり行き先が見えているからこそ乗るわけですね。そういう意味では、話がどこに行くかが適度に示されつつ、でも絶妙にそれが確定しないような感じで先延ばしされていく時に、人はページをめくるんだと思います。
平野 文学も含むアートって、複雑に考えていった時にアウトプットも複雑になりがちだと思うんです。
東 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。
平野 同感です。要約できない文学の方がいいって言う人がいますけど、間違っていると思う。
東 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説の方ですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力は凄い。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。
平野 強いし、切り方がまた巧いんですよね。日本の小説は、海外で読まれようと思った時、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなり逞しく超えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されていたけど。
東 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。
平野 音楽のメロディというか歌に対応するのが、小説のプロットだと思うんですよ。どんなに馬鹿にしても、メロディの強い曲の方が聴く人は多いというのは現実ですよ。
東 音楽でMP3が出た時に、というか既にLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽の良さは分からない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディが良ければ人は聴いてしまう。そこれそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのと凄く似ている。
“プロット”とは、言葉のまま、話の筋。ほぼ“ストーリー”という言葉とイコールだと思います。(ただし、「物語」という言葉には色々と大きな意味合いが付加されて使われることが多いので、ここでは、より狭義の言葉である“プロット”という言葉が使われているんだと思います)
ちょっと前にこのブログでも紹介した平野さんの講演録では、「ストーリーとはラーメンの麺である」と言っていましたが、ここでは「メロディーである」と。
音質が悪くてもメロディーが素晴らしければ、人はその音楽に耳を傾けてしまう、と。
う~ん。
なるほど。
しかし、「素晴らしいプロット」を紡ぐことができるかどうか。
それはまた別の問題なワケで。。。
そして、そこに苦心している俺、と。
う~ん。
苦しい。
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