吉祥寺のバウスシアターで、「ソウルパワー」を観る。
いやぁ。
素晴らしかった!
SOUL POWER!
実は、もう10年越しぐらいのアレなワケですよ!
待望の劇場公開だったワケです。
実は、この作品は、かなり有名な姉妹作があるんですね。
この作品は、「ザイール74」という音楽フェスティバルを追ったドキュメンタリーなワケですが、主要な登場人物の中に、モハメド・アリが登場します。
ボクサーの。
なぜか。
「ザイール74」は、そもそもが、ドン・キングという(のちの悪名高き、ということになるワケですが)黒人のプロモーターが、アリvsジョージ・フォアマンのボクシングヘビー級タイトルマッチと併せて企画した“祭典”だったんですね。
「Rumble in the Jungle」とキングが名づけたその一戦は、のちに「キンシャサの奇跡」と呼ばれるんですが(周知のとおり、アリが勝つ)、このタイトルマッチが、「モハメド・アリ かけがえのない日々」というドキュメンタリー映画として遺されているんです。
もう10年以上前に、この作品を、渋谷のシネマライズで観たワケですねぇ。
(あの頃のシネマライズの上映ラインナップは、もうホントにエッジが効いてて、ずいぶん通ったことを覚えてます)
当時から、当然“音楽祭”の方を収めた映画がある、ということは知ってたんですが、それがこの「ソウルパワー」だったワケですね。
まーねー。
個人的な思い入れみたいなのは、この辺に留めておいて、作品について背景を軽く説明しておくと、まず、この“大イベント”が行われたのは、イベントのタイトルにも掲げられているように、1974年。
アメリカでは、公民権運動を経て、黒人たちの政治意識が最高潮に高まっていた時期です。
というより、そもそも「なぜアメリカの黒人たちがザイールに大挙してやってきたのか」という部分の説明が必要かもしれませんね。
公民権運動(と、呼ばれる人種差別への抗議運動)の盛り上がりの中で、その中の一つの潮流として、黒人たちの“故郷”であるアフリカに帰ろう、という動きがあったんです。
実際に帰る、ということとは違って、要するに「精神的なつながりを意識しよう」という運動だったワケですが。
アフリカを、マザーランド(mother land)、つまり母国、母なる大陸と呼んだりして、自分たちのルーツを確認しよう、ということが盛んに言われていた、と。
そういう背景があるんですね。
で。
祭典を催す、と。
その様子が、断片的になんですが、この作品に遺されている、と。
ともかく、熱量がハンパないですよね。
冒頭、キングのスピットとアリのチャント(合いの手)。
そこから、赤ん坊の泣き声につながっていくんです。
そして、そこに「母性賛歌」のバラッドが被せられる、という。そういうオープニングなんですけど。
言葉、泣き声、そして、鼓動(ハートビート)。自分の鼓動と、その胸に抱かれている母親の鼓動とのポリリズム。
音楽の根源がそこにあり、そして、物理的な「ルーツ」としてのアフリカ大陸。母国。マザーランド。
そういうことなワケですよ。
マヌー・ディバンゴが、路地で、野次馬に手拍子をさせて、そこで“セッション”を始める、という強烈なインサートがあったりして。
彼らが感じている“解放感”と“高揚感”ですね。
作品の中で、登場人物の一人が「ここにいると落ち着く」と言うワケです。
アフリカ大陸で、同じ肌の色の人間に囲まれている、というシチュエーションに、居心地のよさを感じる、と。
当時、彼らが暮らすアメリカ国内では、マイノリティーとして、白人たちの“悪意”に囲まれて生活していたワケです。
そういう緊張感から解放されている、という。
また、彼らミュージシャンたちが、見事な言葉を語るワケですよねぇ。
それぞれが、それぞれの言葉で。
マルコムXの影響を受け、イスラム教に改宗した、という経緯を持つモハメド・アリは(アリは、改名もしています。カシアス・クレイという名前だったのを、改宗を機に、預言者にちなんだ名前に改名している)、当然、反キリスト教徒という立場で言葉を語ってますし(というか、一番喋るのが、アリ)、他のミュージシャンたちも、繰り返し繰り返し、「黒人たちは連帯しなければならない」といったことや、「アフリカに帰ってこれて嬉しい」というようなことを語ります。
彼らの言葉がねぇ。
素晴らしいですよね。ひとつひとつが。
それから、なにより、パフォーマンス。
とにかく素晴らしい。
ソウルの、スピナーズ(このダンスのフットワーク! 最高!)。
ブルーズのキング、B.B.キング。
ラテンの、ファニア・オールスターズ。
そしてなにより、ファンクの帝王、ジェイムズ・ブラウン。
アメリカからだけでなく、アフリカ大陸のミュージシャンも、ズラッと。
どれもこれも、強烈なリズム!
リズムに熱狂する観衆たち!
そして、熱くリズムを叩くミュージシャンたち。
リズムという音波に弾かれるように躍動するダンサーたち。
最高ですよ。
個人的に、ベストパフォーマンスだと思ったのは、実はファニア・オールスターズで、パフォーマンスを観るのが初めて、というのもあったんだけど、その、ラテンビートの“ルーツ”も、ファンクやブルーズやソウルと同じくアフリカ大陸にあるんだ、ということが、かなり強烈に示されているな、と。
あと、交差点の歩道のところで演奏しているバンド。
このバンドは、かなりクールだった。
ひょっとしたら名前のある人たちかもしれないんですが、俺はちょっと分かりませんでした。
クールだったけどね。
まぁ、そんなこんなですよねぇ。
語り尽くせない。
その、「映画作品」としては、妙な“粗”みたいなのもあったりするワケですけどね。
前半部分、プロジェクトが計画どおり進んでいかない、という描写があるワケです。白人の眼鏡をかけた投資家、という人物が、ずっと苛立った顔をしてて。
その人物は、結局、最後の方はまったく出てこなくて。
ライブの音の洪水の前に、どっかに消えてしまっている。
まぁ、映画としては、そういうのは、ね。
ダメなワケですけど。
どこかでちゃんと「ちゃんちゃん」という部分を見せないといけない。
最後に見せないなら、最初から出さない、ということじゃないといけない。
そういうのは、ありません。
まぁでも、いいでしょ。
キンシャサで踊り狂うJBが拝める、というだけで、すでに十分すぎる価値があるワケですから。
うん。
ちなみに、これは諸々書きにくいことですが、この作品の舞台になるザイールは、実は政治的にはこの頃から既に腐敗していて、この後もずっと、長く暗い独裁政治が続くことになります(体制の主は変わりましたが、“独裁”という状況は現在でもあまり変わりません)。
もちろん、当時あった南アフリカのアパルトヘイトは、のちに制度としては撤廃されました。
ただ、アフリカでも、そして、アメリカでも、黒人たちの“貧困”という問題は、まったくと言っていい程、解決はされていません。
この辺りがねぇ。
ちょっと、ね。
複雑なんですが、逆に、グッときたりして。
まだ続いているんだ、という、ね。
JBが、最後にカメラに向かって言うメッセージがあって、それはまだ終わってないんだ、と。
そういうことなんですよ。
うん。
ソウルパワー。
素晴らしい作品でした。